【概 要】−福島県の江戸時代は浜通り地方は中村藩(相馬市)、平藩(いわき市)、湯長谷藩(いわき市)、泉藩(いわき市)、中通り地方は福島藩(福島市)、二本松藩(二本松市)、棚倉藩(棚倉町)、三春藩(三春町)、白河藩(白河市)、会津地方は会津若松藩(会津若松市)が支配しました。それぞれ、城下町、陣屋町で発展した為、現在明瞭な形で武家町の雰囲気を伝えてくれる町はほとんどありません。特に会津若松をはじめ、白河、二本松、棚倉などは戊辰戦争の激戦地で城下町の多くが被害を受け、城も悉く落城しています。在郷の武士の邸宅である武山家住宅が国指定重要文化財に指定されている他、同じく在郷武士の渡部家住宅が県の文化財に指定されています。
【会津若松市】−会津若松市は鶴ヶ城(会津若松城・黒川城)の城下町として発展した町です。主に鶴ヶ城の内堀内部に家老や重臣屋敷、外堀内部に上級、中級、下級武家屋敷、城の南側を流れ外堀に見立てられた黒川(湯川)より内側、下野街道(会津西街道)と二本松街道、白河街道の城下入口付近に下級、足軽の武家屋敷が構えられられました。外堀内部の大通り、中通りは略、基盤の目ですが、鶴ヶ城と郭外への出入口は食い違いで、細かく町割された小路も向かいの小路とは直線上になく攻め辛い構成になっています。戊辰戦争の際は新政府軍と対立した事で侵攻を受け約1ヶ月にわたり鶴ヶ城で籠城戦が行われ、城下の殆どが兵火により焼失し大きな被害を受けています。会津藩は降伏が認められ鶴ヶ城が開城した後は廃藩となり、その後も再興を許されたものの斗南藩(青森県むつ市)に移封となった為、目立った武家屋敷の遺構は見られません。
【二本松市】−二本松市は二本松城の城下町として発展した町です。二本松城の城下町は他の城下町と大きく異なり、山城である二本松城の麓に家臣達の武家屋敷を配置し、その外側には観音丘陵と呼ばれる小高い丘があり、そのさらに外側に奥州街道を引き込み商家町として計画しました。その為、商家町からは観音丘陵を越えなければ二本松城や武家町には入れない構成で、それぞれ松坂門、大手門(大手門の道筋の谷奥に久保町門をさらに配した)、池ノ入門、竹田門を設けて厳重に守りを固めていました。又、それらの門を守るように門の周辺にも下級武家屋敷を配し、門以外の観音丘陵の谷の奥には有力寺院や神社を配する事で防御を固めています。戊辰戦争の際、二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と対立した事で二本松城も戦場となり大きな被害を受けています。明治維新以降は奥州街道沿いの商人町は発展したものの、多くの旧藩士は当地を離れた為、武家町は荒廃し目立った武家屋敷の遺構は見られません。
【白河市】−白河市は小峰城(白河城)の城下町として発展した町です。上級、中級の武家屋敷は概ね外堀の内側である郭内の三之丸に配され、下級武家屋敷は城の西側(会津町)に配されていました。小峰城の北側には阿武隈川が外堀と見立てられていた為、商人町は南側と東側の奥州街道沿いに町割され、商人町の南側に有力寺院や神社を配し、その外側の谷津川を防衛ラインとしています。戊辰戦争の際、白河藩は二本松藩の預かりとなった為、藩主不在のまま旧幕府軍に与する形となり、小峰城も占拠されました。白河の地は古代から陸奥国と下野国の国境に接する事から重要視され、当初、旧幕府側も最終防衛ラインとして多くの兵を集めましたが、半分程度の新政府軍に苦戦を強いられ小峰城は落城しています。その後も小峰城を巡る攻防戦は1ヶ月以上も繰り広げられましたが、増援を得た新政府軍は兵力の上でも上回った事から、旧幕府軍は不利を悟り防衛ラインを縮小し会津領まで退いています。この兵火により多くの武家屋敷は焼失し、さらに、一時白河藩が復活したものの数ヵ月後に廃藩になった為、多くの藩士が白河の地を離れ武家町は荒廃しました。その為、現在白河市街地には目立った武家屋敷の遺構が見られなくなっています。
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