【 岩手県城下町:概要 】−岩手県は中央から北部にかけては盛岡藩領で、本城である盛岡城と支城である花巻城が城郭として認められた為城下町が町割りされ、遠野は要害屋敷を構えた為、陣屋町が形成されました。岩手県の南部は仙台藩と事実上支藩である一関藩の領域で、仙台藩領では岩谷堂、人首、上口内、金ヶ崎、水沢に要害を設けて小城下町(正式には城下町ではなく陣屋町)を形成していました。
特に金ヶ崎は旧武家町の屋敷割りが完全に近い形で残されていて重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。又、水沢でも町並み的には雰囲気が残されていませんが、武家屋敷の遺構が数多く点在し中には後藤新平の生家や高野長英の生家なども含まれています。花巻の同心屋敷もユニークな存在で下級武士の生活を今に伝えています。
【 金ケ崎町 】−岩手県金ケ崎町は仙台藩の21要害の1つ、金ケ崎要害の城下町として発展した町です。仙台藩は62万石(実石100万石超・本城:仙台城)の大藩だった為、藩主伊達家の一族や有力家臣を領内の要地に配して半独立的な行政が認められ、その居館を要害と呼びました(規模や格式によって、城>要害>所>在所>在郷、と呼び分けています)。実際は小規模の城郭と同等で堀や土塁などを有していましたが、幕府により一国一城令が執行されていた手前、名称を要害として天守閣や高層櫓などは廃された実用的な施設として領地の中心となりました。金ケ崎の地は仙台藩領と盛岡藩領の藩境に近い事から重要視され正保元年(1644)には伊達家門閥の一族に列した大町定頼が3千石で配され、現在に近い要害や城下町の整備が行われました。要害の周辺には家臣団の居宅である武家屋敷、奥州街道と城下の入口には足軽屋敷が配され、防衛の為に鉤形や桝形、弓形などの工夫が随所に見られます。
明治維新以降、町の中心部が商家町の西側に移った事から、武家町周辺は大きな開発が行われず、江戸時代当時の屋敷割りが非常に良く残されています。
現在でも金ケ崎町には武家屋敷の遺構も多く、その後に建替えられた建物も武家屋敷の形式を踏襲した事から当時の武家町の雰囲気を色濃く残し、東西690m、南北980m、面積約34.8haが平成13年(2001)に「城内諏訪小路」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
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