武家屋敷: 島崎藤村旧宅

  全国の観光と歴史的建築物武家屋敷・家老屋敷長野県の武家屋敷>島崎藤村旧宅
貞祥寺(島崎藤村旧宅・小諸城武家屋敷)
【 島崎藤村旧宅:概要 】 島崎藤村旧宅の建築年は判りませんが、小諸城の城下町で設けられた武家屋敷の遺構で、間取りからも中級武士以上の格式があったと思われます。構造は木造平屋建て、寄棟、茅葺(トタン板覆い)、平入、外壁は真壁造り鏝押え、北側正面向かって左側1/3が土間、中央1/3が居間畳敷10帖、その内2帖分が床板で囲炉裏付、右側1/3が書斎畳敷8帖床の間、脇床付、背面の左側1/3が土間(勝手)、中央1/3が和室畳敷10帖、右側1/3が和室畳敷8帖、押し入れ2カ所月、北側と南側の外側には縁側が付いています。島崎藤村が小諸の馬場裏にあったこの武家屋敷に入ったのは明治32年(1899)4月、小諸義塾に教師として赴任した際で、教師を辞めるまで約6年間ここで生活を行いました。当時の月給が30〜40円程で家賃が3円だったとされ、決して裕福ではありませんでしたが新婚生活の中で3人の子宝にも恵まれ、「落梅集」「千曲川のスケッチ」「旧主人」などの作品が、この武家屋敷から生み出されています。大正9年(1920)、老朽化から破却される予定でしたが、佐久市前山片貝川畔に住む本間隆氏が島崎藤村の縁の建物が失われるのを惜しみ、自宅に移築、さらに、昭和47年(1972)に本間氏からの寄贈を受け昭和49年(1974)に貞祥寺境内に解体復元されました。

【 小諸城:概要 】 小諸城は室町時代に大井光忠によって前身となる砦を設けたのが始まりとされ、戦国時代に武田信玄(躑躅ヶ崎館の城主)が佐久地方に侵攻した後、武田家の戦略拠点として大改修されました。天正10年(1582)に武田家が滅びると一時織田家家臣である滝川一益の支配下に入りますが、同年、本能寺の変で信長が倒れると、後ろ盾を失った滝川一益は小田原北条家に敗れ信州を後にします。小諸城には旧武田家家臣で徳川家康に従った依田信蕃が入り、天正18年(1590)には豊臣家の家臣仙石秀久が入ります。江戸時代以降、小諸城には小諸藩の藩庁、藩主居館が設けられましたが、明治維新後に廃藩置県が執行され小諸藩が廃藩になると廃城となっています。

【 貞祥寺:概要 】 貞祥寺は室町時代後期に前山城の城主である伴野貞祥が父親と祖父の菩提を弔う為に創建された寺院です。伴野家は天正10年(1582)に武田家が滅びた後は小田原北条氏に与した為、徳川家康に従った小諸城の城主依田信蕃に攻められ没落しています。その後、貞祥寺は歴代小諸城の城主から庇護され、佐久地域を代表する古刹として寺運も隆盛しています。貞祥寺の境内には島崎藤村旧宅の他、長野県指定文化財に指定されている、総門、楼門、三重塔はじめ、七堂伽藍が残され古刹の雰囲気が感じられます。

【 場 所 】 長野県佐久市前山(貞祥寺境内)

【 備 考 】 貞祥寺郷土環境保全地域

スポンサードリンク

※ 当サイトは現地の案内板や資料等を参考にしていますが、誤字脱字、解釈の違い、私論等などが含まれている可能性がありますので最終確認は個人等で行ってください。又、予告なしに追加、書き替えを行いますのでご了承ください。 尚、リンクは自由ですが画像(写真)や文章等の利用は遠慮させていただいております。御理解の程よろしくお願いします。