水口城(岩谷家・長屋門)

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岩谷家・長屋門
【 水口城:概要 】 当地は古くから交通の要衝として軍事的に重要視された所で戦国時代には岡山城が築かれていましたが、当時の城主長束正家は豊臣家の重臣だった為、慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いで東軍に攻められて落城し廃城になりました。江戸時代に入ると五街道の1つ東海道が開削されその宿場町が設置されると再び重要視され寛永11年(1634)に3代将軍徳川家光の命で水口城が築かれ上洛の際の宿所として整備されました。築城には、茶人、建築家、作庭家として名を馳せた小堀政一(遠州)が担い、御殿は二条城(京都府京都市)を模した豪勢な施設となりました(当時は城郭ではなく宿所として「水口御茶屋」と呼ばれていました)。実際に家光が利用したのは1回限りで普段は幕府から城番が派遣され維持管理が成されていました。天和2年(1682)、加藤明友が入封し水口藩を立藩、本丸には将軍家の御殿があった為、二ノ丸に藩庁と藩主居館が設けられました。2代加藤明英が元禄8年(1695年)、壬生城(栃木県壬生町)に移封になると、代わって鳥居忠英が入封、しかし、正徳2年(1712)に壬生城に移封になると、逆に壬生城の城主で明英の跡を継いだ加藤嘉矩が水口城に入ります。その後は加藤氏が城主を歴任して明治維新を迎えています。

【 岩谷家・長屋門:概要 】 詳細は不詳ですが水口城の城下町に残る数少ない武家屋敷の遺構の1つです。木造平屋建、切妻、桟瓦葺、外壁は下見板張り縦押縁押え、潜り戸付。長屋門は一定以上の石高を有している武士に認められていた形式の門なので格式が感じられます。

【 場 所 】 滋賀県甲賀市

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