【概 要】−富山県の江戸時代は富山藩と加賀藩が存在し正式な城下町は富山だけでした。高岡も一国一城令が執行されると城としては認められませんでした(実際は多くの郭や水堀を有していて石高の低い城郭よりも規模が大きかった。)。但し、高岡、魚津、今石動は町奉行所が設けられそれぞれ武士団が務めていた事から当然武家町も存在していたと思われます。富山城下の武家町は略現在の中心商業地区や公共施設にあたる為、遺構どころから遺跡のレベルでも無難しい状況です。高岡も商家町だった山町筋と金屋町(鋳物師町)の町並みは重要伝統的建造物群保存地区に選定されているものの、武家町は市街化した為、雰囲気はあまり感じられません。今石動も武家町というよりは街道筋に発展した宿場町の風情が強く残る地域で魚津も武家屋敷の遺構は見かけませんでした。
【富山市】−富山市は富山城の城下町として発展した町です。富山城は天文12年(1543)に越中西部の守護代神保長識が家臣である水越勝重に命じてい、南北朝時代に設けられた居館跡を整備拡張したものです。上杉謙信の侵攻により一時上杉家に掌握しますが天正6年(1578)に謙信が死去すると、織田信長の侵攻を招き家臣である佐々成政が配されます。天正10年(1582)に織田信長が本能寺の変で倒れると、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)が台頭し成政は対立、天正13年(1585)には秀吉の侵攻を受け軍門に下ります。その後、秀吉に従った前田利家の支配下に入り、富山城には嫡男の前田利長が配され拡張、整備されます。利長は慶長3年(1598)に前田家の家督を継ぎ金沢城(石川県金沢市)に入りますが、慶長10年(1605)には隠居、富山城を隠居城として再び戻り再整備と拡張を行います。しかし、慶長14年(1609)の火災により焼失した為、魚津城、高岡城と隠居城を移ります。寛永16年(1639)、加賀藩3代藩主前田利常の次男である前田利次が10万石を与えられ富山藩を立藩、寛永17年(1640)に富山城を仮の藩庁と定め入城します。当初、富山城は加賀藩が所有し、富山藩が借り受ける形式を取っていましたが、財政難などで新城の築城を諦めた富山藩は万治2年(1659)に加賀藩と領地替えを行い正式に藩庁、藩主居館と定め、万治4年(1661)から本格的な整備、拡張を行い、以後、富山前田家が城主を歴任して明治維新を迎えています。武家町は富山城の三之丸以外は城の西側と南西方法に集中し、東側の外堀沿いに設けられ、町人町は南東方向と東側の武家町の外側に設けられていました。明治時代以降、近代化と新たな区画割り、富山大空襲等で、現在武家町を感じられる町並みは失われ、目立った武家屋敷の遺構も見られません。
【高岡市】−高岡市は高岡城の城下町として発展した町です。高岡城は慶長14年(1609)、前田利長の隠居城だった富山城が焼失し、新たな隠居城として築いたのが始まりとされます。縄張りは前田家の客将とされる高山右近で短期間の内に築城され城下町も整備されましたが、慶長19年(1614)に利長が死去し、さらに慶長20年(1615)に一国一城令が発令されると存在理由が失われ廃城となります。利長に従った家臣達は高岡地を離れ一時衰退しましたが、加賀藩2代藩主前田利常(前田家3代)はこれに憂い、高岡城に代官所や御蔵などを設置し、城郭としての機能を維持させ町民の離散を食い止め当地域の中心として地位を維持させました。高岡城は目立った施設は撤去したものの、堀や土塁などは維持され、それらが幕府の役人から直接見えないように街道の道筋や町人町を移す事で、現在に近い町割が計画されました。ただし、武家町といっても代官所の役人など限定的で、商家町(山町筋)や職人町(金屋町)として発展し、現在も武家屋敷の目立った遺構は見られません。
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