茅葺屋根集落(重伝建地区)

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茅葺屋根集落:一覧

名 称
場 所
内 容
・大内宿・福島県
・下郷町
大内宿の福島県下郷町に位置する旧宿場町です。地名「大内」の由来は、伝承によると平安時代末期に以仁王が平家打倒を画策したものの、計画が露呈し、越後国(新潟県)小国に逃避する際、当地を訪れ、宮中にある「大内」に似ている事を住民に話された事に起因していると伝えられています。大内宿の鎮守である高倉神社は以仁王が高倉宮と呼ばれてい事に因み、以仁王が祭られています。江戸時代に入ると会津藩の藩都である会津若松(福島県会津若松市)と江戸(東京都)とを結ぶ会津西街道(下野街道)が整備され、大内宿はその宿場町として町割りされました。会津城下からは約半日の工程で、丁度昼飯時に大内宿にたどり着く事から多くの人々が利用しましたが、明治時代に入ると主要道から外れた為に賑わいは失われました。現在でも茅葺屋根の古民家(農家兼旅籠建築)が街道沿いに軒を連ね良好な町並みが残され国重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
・前沢集落・福島県
・南会津町
・前沢集落は安土桃山時代に周辺の領主だった山内氏の家臣小勝入道沢西により開かれた集落であると伝えられています。山内氏は会津地方を収める会津四家に数えられていましたが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置きで領地安堵が認められなかった事から没落し、その家臣である小勝入道沢西は帰農する道を選んだと思われます。江戸時代、明治時代を通じて10数戸程度の集落規模を維持し、山間の集落形体を維持しています。特に、明治40年に殆どの家屋が火災により焼失し、その直後から再建を図った為、同じ様な茅葺の曲屋の古民家で構成される茅葺屋根集落が残される結果となり国の重伝建地区に選定されています。
・青鬼集落・長野県
・白馬村
・青鬼集落の地名は平安時代の大同元年(806)に創建したと伝わる青鬼神社に由来しているとされます。伝承によると山を挟んだ隣村に悪鬼が出現し、悪事の限りを尽くした為、底無しの洞窟に閉じ込めました。すると、その鬼は当村に善鬼として出現し、村の発展に大きく貢献し「お善鬼様」として神社に祭られるようになり、当村を青鬼、以前の村を鬼無里と呼ぶようになったと伝えられています。青鬼集落には、千国街道の千国宿と北国街道の善光寺宿を結ぶ脇道が通っていた事から現在よりも人の往来があったと思わます。青鬼神社以外は素朴な宗教観で、集落の一角には向麻石仏群や阿弥陀堂石仏群があり、数多くの石仏や石碑が建立されています。青鬼集落は現在でも茅葺屋根(見た目は鉄板で屋根を覆っている)の古民家や棚田(棚田百選)や青鬼堰ななど生産空間も当時の集落景観が維持されている事から国重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
・菅沼集落・富山県
・南砺市
・菅沼集落は周囲を山で囲まれ5つの谷がある事から五箇山と呼ばれる地域に位置する茅葺屋根集落です。菅沼集落には合掌造と呼ばれる主に五箇山(富山県南砺市)と白川郷(岐阜県白川村)に見られる古民家が9棟残されています。明治時代後期以降、近代化の波やダム建設に伴い、合掌造りの古民家や集落が次々と失われる中、菅沼集落は奇跡的に当時の集落景観が残され、国重要伝統的建造物群保存地区の他、国指定史跡、ユネスコの世界遺産にも登録されています。
・相倉集落・富山県
・南砺市
・相倉集落は菅沼集落と同様に五箇山に位置し、合掌造の茅葺屋根集落です。相倉集落の発生期限は判りませんが、村役を歴任してきた図書家は平安時代末期の寿永2年(1183)に行われ倶利伽羅峠(富山県小矢部市・石川県河北郡津幡町)の戦いで木曽義仲率いる源氏に敗れた平家の落ち武者の後裔とされ、それがた正しければ、平安時代には集落として成立していたと思われます。室町時代後期になると五箇山全域に浄土真宗が盛んなり天文21年(1552)には図書了観が真宗念仏道場を設けています。相倉集落には図書家が別当として祭祀を司った念仏道場が発展した相念寺と西本願寺派の門徒による西方念仏道場があり、小さな集落ですが、信仰の篤さが現在でも息づいています。相倉集落は菅沼集落と同様に、国重要伝統的建造物群保存地区の他、国指定史跡、ユネスコの世界遺産にも登録されています。
・白川郷荻町・岐阜県
・白川村
白川郷の歴史は古く、平安時代末期の安元2年(1176)に編纂された古文書の中に「飛騨国白川郷」の記載がある事から、比較的早くから中央にも認識されていた事が伺えます。地勢的にも似ている五箇山同様に白川郷にも平家落人伝説が残され、大戸家はその末裔とされます。鎌倉時代に入ると浄土真宗の布教が始まり建長5年(1253)には嘉念坊善俊により正蓮寺(照蓮寺)が創建されました。室町時代に入ると内ケ島氏が白川郷一帯を支配し、地勢学的優位性から長く独立を保っていましたが、天正13年(1586年)の天正地震により居城である帰雲城が跡形もなく崩壊し、主要な一族も運命を共にしました。その後は金森氏、江戸時代中期以降は天領となっています。五箇山にある菅沼集落や相倉集落と同様に、合掌造りの古民家で構成される茅葺屋根集落で、生業も養蚕や硝煙が主産業で大家族制度が長く保たれていました。白川郷荻町集落は、国重要伝統的建造物群保存地区の他、国指定史跡、ユネスコの世界遺産にも登録されています。
・美山町北集落・京都府
・南丹市
美山町北集落の前面には京都の中心部と日本海側の要港があった小浜(福井県小浜市)を結ぶ若狭街道(鯖街道)が通過し、若狭国と丹波国の国境に比較的に近かった事から、民家の形式も両国の特徴が見られ北山型民家とも言われています。集落は正面を南方とした緩い傾斜地で、基本的に全ての主屋は南側を向き、傾斜を利用して採光や通風を有利になるように配されています。美山町北集落には現在でも50棟中38棟が茅葺屋根で、集落単位の茅葺屋根残存率は全国一位を誇ります。美山町北集落は国重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

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