福井県・今庄宿

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【 概 要 】−今庄宿(福井県南越前町)は天正3年(1573)頃に織田信長に従った赤座吉家が今庄城に入り、城下町として整備され、都市的な集約が図られた町です。吉家は北の庄城の城主柴田勝家や前田利家と関係があったものの天正10年(1582)の本能寺の変の後は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従い、天正18年(1590)の小田原の役の功により2万石の大名として抜擢されます。しかし、天正5年(1600)の関ケ原の戦いでは、西軍として布陣しながら、小早川秀秋に呼応して東軍に寝返ったものの、徳川家康からその行為は認められず改易となり今庄の地を去っています(その後、加賀藩前田家の家臣7千石で召し抱えられています)。江戸時代に入り福井藩(当時は北ノ庄藩)が立藩すると今庄宿は福井藩(本城:福井城)に属し初代藩主結城秀康(徳川家康の2男)によって正式に北国街道が開削された際に改めて宿場町として整備されました。今庄宿を過ぎると山中に入り、山中峠、木の芽峠、栃ノ木峠、湯尾峠それぞれの経路を経て近江国(現在の滋賀県)に至りました。北国街道は北陸地方の諸藩(福井藩、丸岡藩、勝山藩、大野藩、鯖江藩、小浜藩、加賀藩)が参勤交代の経路として利用した為、今庄宿は交通の要衝として重要視され、本陣や脇本陣、問屋などの主要施設が設けられました。江戸時代後期の天保年間(1830〜1844年)の記録によると戸数290軒、人口1300余人、旅篭屋55軒、茶屋15軒、酒屋15軒、問屋3軒等で構成され、福井藩内の宿場町としては最大の規模を誇り大きく発展しました。江戸時代末期の元治元年(1864)には主に水戸藩(茨城県水戸市:本城−水戸城)の藩士が中心となり結成した天狗党が京都を目指し西上した際、今庄宿で宿泊で利用されています。12月8日には天狗党掃討の為、加賀藩が今庄宿に入りますが、12月9日に天狗党の来襲の情報が入ると脇本宿(南条町)へ移り、代わって天狗党が今庄宿に入りました。天狗党進軍の際には宿場町が戦場となり大きな被害を受ける例があった為、その話を聞いた住民は逸早く避難し、各家には男子1人が残り天狗党約1千人の御世話をしたそうです。明治時代に入ると近代交通網が整備され、宿場町としての機能が次第に失われましたが、引き続き地域の中心としての機能は維持され町役場などが設けられています。現在でも宿場町当時の建物が随所に残され良好な町並みを見る事が出来ます。


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