岐阜県・下呂温泉(日本三名泉)

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【 概 要 】−下呂温泉(群馬県下呂市)が何時頃に開かれたのかは判りませんが、延喜年間(901〜923年)とも天暦年間(947〜957年)とも云われています。当時は既に官道が整備され、平安時代初期に編纂された勅撰史書である「続日本紀」によると、宝亀2年(776)には伴有駅(上留駅)と呼ばれる駅家(江戸時代の宿駅のような存在)があり、後に現在の下呂温泉付近に「下留駅」が置かれています。さらに、延喜元年(901)に菅原兼茂(菅原道真の子供)が飛騨権掾に就任し、延長5年(927)に100名の飛騨の匠を税として朝廷に派遣している事から、これらの過程で源泉が発見されたとも考えられます。享保13年(1728)に幕府天領飛騨代官長谷川忠崇の命で編纂された「飛州志」によると、下呂温泉が山中で湧出ているのを発見したのは天暦年中(947〜957年)と明記しています(何を根拠にしていたのかは不詳)。当初は湯が峰に源泉がありましたが、鎌倉時代の文永2年(1265)には枯渇し、文永3年(1267)に白鷺と薬師如来の導きにより、現在地に近い益田川の河原で新たな源泉を発見しています。室町時代に入ると、既に名泉として広く知られた存在になっていたようで、近江国(現在の滋賀県)出身の禅僧で歌人の万里集九の著した「梅花無尽蔵」に下呂温泉を、草津温泉、有馬温泉と共に日本三名泉であると賞賛しています。万里集九は延徳3年(1491)8月に美濃国鵜沼出身の春沢梅心翁と下呂温泉に入浴し、「本邦六十余州、毎州有霊湯、其最者、下野之 草津 、津陽之 有馬 、飛州之 湯島 三処也」の歌を残し、下呂温泉は益田郡下櫓の郷に位置し、延喜年間の初期頃に発見され、霊験により入浴すればどの様な病気も平癒してしまうと評しています。詳細は不詳ですが戦国時代には織田信長が湯治行ったとされ、天正6年(1578)に居城である岐阜城(岐阜県岐阜市)を出立し、羽渕家(岐阜県関市)で休息を取り、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)や前田利家、森長可などの家臣も同行したそうです。明確に下呂温泉という記録はありませんが、前後の文脈や、万里集九の時代にも名泉として知られた存在だった事などから下呂温泉で湯治したと推定されています。江戸時代に入り、飛騨街道が正式に開削され、温泉街は宿場町が整備されると、飛躍的に利用者が増大し江戸時代後期には年間3万人が利用し、江戸時代の温泉番付である「諸国温泉功能鑑」には「濃州下良の湯」として前頭に格付けされています。又、江戸幕府初期の儒学者林羅山が著した「西南行日録」でも万里集九を模したか、意識してか、全く同じく、下呂温泉、草津温泉、有馬温泉を日本三名泉として評しています。


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