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 神社山門: 清洲山王宮日吉神社

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清洲山王宮日吉神社

清洲山王宮日吉神社(愛知県清須市)
【 概 要 】−清洲山王宮日吉神社は宝亀2年に創建された古社で、流行病を治める為に祈願されたと伝えられています。清洲総氏神として歴代領主から崇敬庇護され社領の寄進や社殿の造営が行われました。戦国時代には清洲城主となった織田家の崇敬社となり、織田家が没落後は当地の出身である豊臣家が庇護しました。古くから神仏習合し、境内には別当寺院である神宮寺の薬師堂などが建立されていました。神門(神社山門)は切妻、桟瓦葺、一間一戸、四脚門、神仏習合時代の名残が見られます。

【 場 所 】−愛知県清須市清洲

【 構 造 】−切妻、桟瓦葺、一間一戸、四脚門

【 備 考 】−豊臣秀吉の出自は明確な資料が少なく謎とされます。現在一般的な秀吉像は江戸時代初期の寛永2年(1625)〜延宝4年(1676)に土屋知貞(幕府旗本)によって編纂された「太閤素生記」で、それによると秀吉の父親は尾張国中村(現在の名古屋市中村区)出身の織田信秀の元鉄砲足軽だった木下弥右衛門で天文12年(1543)に死没とあります。しかし、資料的には同じ天文12年(1543)に種子島にポルトガル人漂着し鉄砲伝来した事になっている為、鉄砲足軽が組織されているはずもなく疑問視されています。似たような説としては生母大政所(なか)が木下弥右衛門と死別、又は離婚した後に竹阿弥と再婚したとされ、竹阿弥に至っても実父説と継父説があります。江戸時代初期の寛永8年(1631)に竹中重治(竹中半兵衛)の嫡子である竹中重門が編纂した「豊鑑」によると秀吉は尾張国愛知郡中村郷のあやしの民の子とし、父母や一族も誰だか判らないと評しています。

一方、秀吉が織田家を排斥し天下を狙えるようになると、秀吉の神格化が始まったようで天皇落胤説や公卿落胤説、西夏王の子孫説などが意図的に流布させ、その一環として日輪受胎伝説が創作されたと推定されています。日輪受胎伝説は概ね生母大政所(なか)が懐中に日輪を入れる夢をみて秀吉を懐妊したというもので、それに日吉山王権現の信仰に沿わせ、「日吉丸」という秀吉の幼名や、容姿が山王信仰での神の遣いである猿に似ているなどが付け足されさらなる神格化が図られました。清洲山王宮日吉神社に伝わる大政所(なか)が境内にある「子産石」に子授祈願を行い懐妊したという伝承も秀吉の神格化の一端を示すもので興味深いものがあります。

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