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 神社山門: 砥鹿神社

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砥鹿神社

砥鹿神社(愛知県豊川市一宮町)

砥鹿神社(愛知県豊川市一宮町)

【 概 要 】−砥鹿神社が何時頃から信仰されていたのかは誰も判りませんが、古くから霊山として知られていた大深山の山頂に祀られていたそうです。大宝年間に現在地に遷座し、平安時代後期に記された延喜式神名帳では式内社として記載され、三河国一宮として広く信仰されました。江戸時代に入ると幕府から朱印地100石が安堵され、領主である吉田藩主からは例祭時に代参を遣わし参拝しています。

【 場 所 】−愛知県豊川市一宮町西垣内

【 構 造 】−切妻、銅板葺、一間一戸・切妻、銅板葺き、三間一戸、八脚単層門

【 備 考 】−砥鹿神社は東三河最高峰である本宮山(三河富士・砥鹿山)を御神体とする奉斎する施設が前身とされ、砥鹿神社の本宮が鎮座する本宮山の中腹から山頂にかけては、馬の背岩、日月岩、えびす岩、山姥の足跡、山頂の磐座、めいめい岩、国見岩など奇岩怪石が点在し、神々が降臨するとされる磐座に見立て信仰の対象になったと思われます(特に国見岩が古代の祭祀場だったとされます)。そいう意味では、当初の祭神は砥鹿神だったのではないかと思います。その後、当地が大和王権の影響下に入り穂国(東三河)が成立し穂国造が任命されると、砥鹿神社に穂国造の祖神が合祀、又は合祭するようになった可能性があります。

資料的価値に疑問視されている「先代旧事本紀」の「国造本紀」によると穂国造は「雄略朝に、生江臣の祖・葛城襲津彦命の四世孫の菟上宿祢を国造に定められた。」とあります。古代の三河国に「穂」という地名が存在した事は古事記や、奈良県明日香村石神遺跡から出土した木簡などに見える事から確実視されますが、「穂国」や「穂国造」という名称は「先代旧事本紀」以外は見る事が出来ない為、確実性が欠けます。しかし、本宮山の山麓には6世紀後半〜7世紀後半に築造された約40基からなる炭焼古墳群(愛知県指定史跡)があり、砥鹿神社の神官家である草鹿砥氏は穂別命の後裔とされる事から「穂」地域を支配する古代の豪族は実在していたと思われます。因みに愛知県豊橋市石巻本町紺屋谷には東三河最大の前方後円墳である馬越長火塚古墳(国指定史跡)が築造されていますが、本宮山と関係性を見いだせない位置関係である事から砥鹿神社を奉斎したと思われる穂国造とは関係ない氏族の古墳と思われます。

砥鹿神社の里宮と本宮山の位置関係はほぼ南北軸上にあるものの、社殿はやや斜めを向き本宮山を遥拝する角度になっておらず、拝殿正面に位置する神門の先には参道が無く、少し中途半端な印象を受けます。

個人的には、本宮山の山頂付近に境内を構える砥鹿神社奥宮は本宮山自身である砥鹿神が祭られていた神社で、一方、里宮は本宮山を奉斎する穂国造、又はそれに準じる豪族の後裔とされる草鹿砥氏が氏神を祭った神社と思われます。里宮の境内が本宮山と南北軸に配されていながら、社殿が斜めになっているのは元々、奥宮と里宮は別々の神が祭られているものの、その両方を奉斎する草鹿砥氏の思慮だったのではないかと思います。しかし、時代が下がるとその思いは失われ両社が大己貴命を主祭神とする奥宮・里宮の関係に落ち着いてしまったように感じます。

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