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 小田八幡宮(源義経と根城)

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小田八幡宮

小田八幡宮

小田八幡宮:概要

小田八幡宮(青森県八戸市)は平安時代後期に多賀城(宮城県多賀城市)に設置された陸奥国府に配され鎮守府将軍に就任した源頼義により創建された古社です。当時の陸奥国では俘囚の頭領である安倍氏が朝廷に対して独立運動を展開し世情が不安定だった為、頼義から見ると北方鎮護の意味合いから、北方の守護神で四天王の1人毘沙門天を安置する事で陸奥国の安寧を願いました。中世に入ると、根城(日本100名城)に配された南部氏が当地が根城から見ると北方に当たる事から南部家の氏神である八幡神の分霊を勧請し崇敬社として庇護しました。その後は神道色の強い八幡神と、仏教色が強い毘沙門天の両方を祀る神仏習合の形式となり、別当寺院である福田山徳城寺が祭祀を司るようになりました。現在見られる小田八幡宮の神社山門(八戸市指定文化財)は徳城寺の仁王門であり本来、寺院の結界として両側には仁王像が安置されるべく施設として建てられたものですが、明治時代に新政府により神仏分離が発令されると、神社になるか、寺院になるかの選択が行われ、結局徳城寺を廃寺にし小田八幡宮として改めて正式な神社となりました。このように神社に転じた場合、仏教色の強い施設は取り壊されるのが常でしたが、小田八幡宮では内部に安置されている仁王像を廃して、改めて随神を祀る事で随時門(神社山門)として保全しました。

源義経:伝説

小田八幡宮は源義経縁の神社でもあります。一般的には義経は文治4年(1188)に平泉(岩手県平泉町)で自刃したとされるのが通説ですが、岩手県から青森県、北海道にかけては義経生存説や、義経北方伝説など数多く伝えられ、小田八幡宮でもその伝説が伝えられています。事実かは判りませんが、義経は毘沙門天像を持参して小田八幡宮に奉納した事や、義経が小さな田を開いた事から「小田」という地名が起こった、大般若経の写経を寄進したなどの伝承が残され、境内には義経堂が建立されています。八戸市にはその他にも弁慶石(八戸城)や義経石(八戸城※現在消息不明)、おがみ神社(八戸城)(義経の正室で公家である久我家の娘が葬られた聖域)、長者山新羅神社(義経の家臣板橋長治の居館跡)、藤ヶ森稲荷神社(義経が勧請した神社)、帽子屋敷(義経は烏帽子を掛けた場所)、矢止めの清水(弁慶が高舘から矢を放ち、突き刺さった場所から湧き出た清水)など数多くの縁の地や史跡が点在し、津軽半島まで足を延ばせば義経寺(義経の持仏を本尊として祀る寺院)や厩石(義経が津軽海峡を渡る際に馬を繋いだ)なども存在し、伝説が広範囲に広がっていた事が窺えます。

小田八幡宮:動画

根城:動画

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