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 神社山門: 若狭彦神社

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若狭彦神社

若狭彦神社(福井県小浜市遠敷)

若狭彦神社(福井県小浜市遠敷)

【 概 要 】若狭彦神社は和銅7年に創建した古社です。格式が高く、平安時代中期に成立した延喜式神名帳に名神大社として記載され若狭国一宮に格付けされました。歴代国司、守護、藩主からも崇敬庇護され、社運も隆盛していましたが、室町時代に入ると、利便性が良い若狭姫神社に信仰の中心が移っています。随神門(神社山門)は江戸時代後期に建てられたもので福井県指定文化財に指定されています。

【 場 所 】福井県小浜市遠敷

【 構 造 】−入母屋、檜皮葺、三間一戸、八脚単層門・切妻、檜皮葺、一間一戸、四脚門

【 私 論 】−若狭彦神社の祭神である彦火火出見尊は日子番能邇邇藝命と木花之佐久夜毘売の3男で、奈良時代に成立した「日本書紀」と「古事記」で「山幸彦と海幸彦」の山幸彦として登場し、海神(大綿津見神)の娘である豊玉姫(若狭姫神社の祭神)と結婚して鵜葺草葺不合命が生まれています。山幸彦に敗れた兄である海幸彦(火照命)は弟に従い隼人の祖になったとの神話から、舞台は九州地方とされ瓊々杵尊、彦火火出見尊、彦波瀲武盧茲草葺不合尊は日向三代とも云われています。

若狭彦神社の主祭神が彦火火出見尊という事は若狭彦神と同神という事になりますが、何故、九州に縁があると思われる彦火火出見尊が若狭彦神社の主祭神として祭られているのかいまいち良く判りませんでした。当然、最初は若狭彦神が祭られていたと思われますが、後白河院(第77代天皇・在位:久寿2年:1155年〜保元3年:1158年)が平安時代末期の院政時代に命じて「彦火火出見尊絵巻」を制作させ、その後、若狭国松永庄新八幡宮の所有を経て明通寺に渡り、江戸時代に小浜藩主酒井忠勝が3代将軍徳川家光に献上している事から、少なくと平安時代末期には彦火火出見尊の伝承か何かが若狭国に伝わっていた事窺えます。

資料的価値に疑問視されている「先代旧事本紀」の「国造本紀」によると若狭国造は「允恭朝の御代に、膳臣の祖・佐白米命の子の荒砺命を国造に定められた。」とあります。古代の若狭国は天皇に食膳を貢納する「御食国」で、10日毎に「雑魚」、節日毎に「雑鮮味物」、1年に一回は「生鮭、ワカメ、モズク、ワサビ」を御贄として納める事が定められ、塩で納税していた事が判っており、天皇に料理をして献上し「膳臣」の姓を賜った膳氏一族が若狭国造を務めるのは相応しい事と思われます。

若狭彦神社は遠敷郡に位置し、かつて遠敷郡上中町には数多くの古墳が築造され、埋葬者は若狭国造の膳臣一族の可能性が高いと推測され、現在残されている脇袋・天徳寺古墳群の中でも西塚古墳・上ノ塚古墳・中塚古墳・上船塚古墳・下船塚古墳の5基は国指定史跡に指定されています。特に注視するのは西塚古墳と森古墳の石室内部は九州北部に築造された番塚古墳(福岡県苅田町)や関行丸古墳(佐賀県佐賀市)との類似性が指摘され、向山一号墳(5世紀中葉:前方後円墳、全長約48.6m)は九州の影響を受けた本州最古級の横穴式石室を有していた事です。さらに、中国製や朝鮮半島製の副葬品が多数発見されており、膳氏は九州北部、中国、朝鮮と関係が深い氏族だった事が窺えます。

北部九州の中でも魏志倭人伝で伊都国として登場し、その中心部だったと推測される福岡県糸島市には記紀神話で記されている多くの地名が残され、神話で登場してくる神々を祭る神社も多数鎮座し、「山幸彦と海幸彦」神話も糸島半島や壱岐、対馬が舞台だったとの説もあります。特に対馬の和多都美神社には日子穂彦穂出見命(彦火火出見尊=山幸彦)と豊玉姫が祭られ、美津島町濃部は山幸彦がく忍び住んだ事から地名の「ノブ」の由来となり、天神神社には山幸彦が祭られています。又、鴨居瀬の住吉神社の境内は山幸彦が当地に到着し、豊玉姫が彦波瀲武盧茲草葺不合尊を出産した地とされ、祭神として彦波瀲武盧茲草葺不合尊が祭られています。その他にも山幸彦や豊玉姫の史跡や祭られてる神社が複数あります。

奈良時代に編纂された「筑後風土記」の逸文によると「豊前国上膳県」という地名が記され、大宝2年(702)の豊前国上三毛郡加自久地里戸籍に「膳臣・膳大伴部」、塔里戸籍に「膳大伴部」の名前が見られ、平安時代初期に編纂された「日本霊異記」にも慶雲2年(705)9月15日に豊前国宮子郡の少領、膳臣広国が死没し、3日後に蘇生した様子が記されている事から豊前国(福岡県東部、大分県北部)に膳臣一族が居していた事が窺えます。

以上の事から察すると膳臣は北部九州出身の豪族で、若狭国に進出した際に関係が深かった彦火火出見尊を祭る若狭彦神社と豊玉姫を祭る若狭姫神社を創建したような印象を受けます。さらに、膳臣は北部九州に人脈や地勢を熟知している事から大陸と大和王権(朝廷)を結ぶ重要役割を持ち、若狭国が大陸への入口の一つとして整備された可能性があります(勿論私論です)。※日本書紀では膳臣は孝元天皇の皇子である大彦命の子比古伊那許士別命を祖としています。日本神社100選

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