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 神社山門: 貫前神社

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貫前神社

貫前神社(群馬県富岡市一ノ宮)

貫前神社(群馬県富岡市一ノ宮)

貫前神社(群馬県富岡市一ノ宮)

貫前神社(群馬県富岡市一ノ宮)

【 概 要 】貫前神社は安閑天皇元年(531)に物部姓磯部氏が氏神である経津主神を祭り創建したという古社です。延喜式神名帳では名神大社として記載、上野国筆頭の一宮とされ国事の祭事を司る格式を持ちました。歴代領主や為政者から崇敬庇護され、特に江戸時代には徳川将軍家から特別な配慮があり3代将軍徳川家光と5代将軍徳川綱吉が壮麗な社殿を造営し現在もその姿を留めています。貫前神社は明治時代までは神仏習合し境内には三重塔や観音堂など多くの堂宇が建立されていましたが、明治の神仏分離と廃仏毀釈により仏教色が強いものは排除され現在の姿となっています。

【 場 所 】群馬県富岡市一ノ宮

【 構 造 】−切妻、銅板葺き、一間一戸、四脚門・入母屋、桟瓦葺、一間一戸、四脚楼門・切妻、銅板葺き、一間一戸、勅使門・切妻、銅板葺き、一間一戸

【 私 論 】−貫前神社は経津主神と比売大神(姫大神)の2柱が主祭神として祭られている神社で、元々の祭祀形態が2神2社説や、2神1社説、1神1社説があり確定には至っていません。まず、経津主神ですが、こちらは古代当地の豪族だった磯部氏の祖神とされ、磯部氏は「続日本紀」の天平神護二年(766)五月の条に「上野国甘楽郡の人外大初位下礒部牛麻呂ら四人に物部公の姓を賜わる。」旨の記事がある事から物部姓磯部氏とも云われています。さらに、物部氏は石上神宮(奈良県天理市布留町)を奉斎し、その祭神が布都御魂大神で、貫前神社の祭神である経津主神と同神とも云われています。一般的な解釈としては磯部氏が物部姓を賜ったのは天平神護2年(766)の事なので祖神として祭ったのであれば、これ以降という事になり、貫前神社の由緒上の創建年である安閑天皇元年(531)とは大きく矛盾する事になります。一方、安閑天皇元年(531)には日本書紀によると「武藏國造笠原直使主與同族小杵、相爭國造使主・小杵、皆名也、經年難決也。小杵、性阻有逆、心高無順、密就求授於上毛野君小熊而謀殺使主。使主、覺之走出、詣京言?。朝庭臨斷、以使主爲國造而誅小杵。國造使主、悚憙交懷、不能默已、謹爲國家奉置横渟・橘花・多氷・倉樔四處屯倉。是年也、太?甲寅。」の一文があり、武蔵国造の乱が発生し上毛野国造と思われる上毛野君小熊が関わった事が窺えます。武蔵国造の乱はヤマト王権により制圧されましたが、それを主導したのは継体天皇21年(527)に発生した磐井の乱の平定でも将軍として従軍した物部麁鹿火の可能性があり、貫前神社の旧地とされる鷺宮咲前神社(群馬県安中市鷺宮)の境内に陣を構えたとも考えられます。貫前神社の奉斎者である磯部氏は一般的には当地の豪族と目されていますが、磯部氏は石部氏に通じ、石部氏は物部氏の一族という説があります。これらの事から察すると、安閑天皇元年(531)に発生した武蔵国造の乱を平定する為に物部麁鹿火が派遣され、それに従軍した一族の磯部氏(石部氏)が当地に配され、祖神である経津主神(抜鉾大神)を祭ったとも考えられます。

もう一方の祭神である、比売大神の詳細は不詳で、1説には綾女庄(当地の古い呼称)の養蚕機織の神、1説には狗留吠国(印度国内に存在した国)出身の好美女、1説には当地に土着した渡来人の出身国で奉斎した織物の神、などの説があります。

何れにしても、経津主神と比売大神(姫大神)は性別も意味合い由緒も異なる事から、元々は別々の社殿で祭られていた可能性が高く、所謂「六国史」では貫前神と抜鉾神の両方が使い分けられ、地名も貫前郷と、抜鉾郷と別れていた事など個人的には当初は2神2社だったものが平安時代中期から後期頃に合祀されたような印象を受けます。日本神社100選

群馬県の神社山門
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榛名神社
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