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神社山門: 柿本神社 |
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柿本神社 |
【 概 要 】−柿本神社は仁和3年に創建された神社です。元々は現在の明石城の地に境内を構えていましたが、江戸時代初期に明石城が築城された際に現在地に遷されました。歴代明石藩藩主から崇敬庇護され 社領の安堵が行われました。
【 場 所 】−兵庫県明石市人丸町 【 構 造 】−切妻、銅板葺、三間一戸、八脚単層門 【 備 考 】−柿本神社の祭神である柿本人麻呂は同時代に成立した歴史書などに名前が無く出生が不詳、7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された現存する日本最古の和歌集である「万葉集」とその付随する題詞・左注のみにその存在を知る事が出来ます。一般的に柿本人麻呂の事跡や経緯とされる事柄は、数多く残した歌の意味を解釈したもので、確実なことは極めて少ないとされます。死没地についても所説あり、その中でも石見国(現在の島根県)の日本海に浮かぶ鴨島だったという説が広く知られています。鴨島は万寿3年(1026)の万寿地震によって海中に没し、そこから流れ着いた御神体を祭ったのが高津柿本神社とされますが、多くの資料が江戸時代に編纂されたものである事などから否定的な説もあります。その他にも島根県には死没地とされる亀島や湯抱鴨山、安来説などがあります。 柿本人麻呂と明石市との関係も客観的な一次資料はありませんが、「石見風土記」逸文には「天武四年三月九日柿本人丸叙三位兼播磨守」との記載があり、飛鳥時代の天武4年(675)3月9日に播磨守に任ぜられた事が窺えます。しかし、「石見風土記」逸文は南北朝時代の南朝暦:正平21年/北朝暦:貞治5年(1366)に由阿が編纂された「詞林采葉抄」に記載されたもので、その他の記事には飛鳥時代には無い官位が示されている事から後世に作為された説が有力視されてます(筆者である由阿は明石にある「人丸塚」を人麻呂の墳墓と想定して記事を創作した可能性があります)。 兵庫県姫路市青山に鎮座する稲岡神社の摂社人丸神社の由緒書によると「御祭神柿本人麿呂朝臣は孝昭天皇の皇子天足彦国神人命の裔にして人皇41代持統天皇42代文武天皇に仕えられ播磨守たりし時、青山に住居されていた。人麿呂公大和への旅先にて石見の国より妻の来る夢見て引換えしこの岡にて妻を見たとの言い伝えにこの岡を妻見ヶ岡と称しこの地に社を建立す。・・・」とあります。人丸神社の由緒も伝説の域を出ませんが、人麻呂が播磨守だったという事跡を補完する材料かも知れません。 山口県長門市油谷新別名に鎮座する八幡人丸神社は柿本人麻呂が石見国(現在の島根県)から大和国(現在の奈良県)に向かう際に当地に立ち寄り「向津具の奥の入江のさざ波に、海苔かく海士の袖は濡れつつ」の歌を残し後年、遺徳を忍び創建されたと伝えられている神社ですが、播磨に流された人麻呂が勅命で異国から侵攻した鬼人を和歌で防ぐように命じられたとの伝承も残されています。 以上の事から察すると、柿本人麻呂が播磨守だったとの伝承等は明石の「人丸塚」が少なくとも室町時代以前から人麻呂の旧跡として広く知られる存在だった、ここから派生したと考えられます。しかし、肝心の「人丸塚」がどの様な理由で築かれたのかは不詳。
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