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 神社山門: 久々比神社

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久々比神社

久々比神社(兵庫県豊岡市下宮)
【 概 要 】−久々比神社が何時頃から祭られているのかは判りませんが、平安時代に成立した延喜式神名帳に式内社として記載された古寺です。現在の本殿は室町時代に建てられた古建築で国指定重要文化財に指定されています。

【 場 所 】−兵庫県豊岡市下宮

【 構 造 】−切妻、桟瓦葺、五間一戸、十二脚単層門

【 備 考 】−現在、久々比神社の主祭神は久久遅命ですが、元々は別の神が祭られていたという説があります。社号から察すると久久遅命は読みが近く一見相応しい神のように思いますが、社号の「久々比」はコウノトウリの古称で、一方、久久遅命は日本神話に登場する木の神である事から決して相応しい神とは言えません。

一方、日本書紀の垂仁天皇23年の条に「廿三年秋九月丙寅朔丁卯、詔群卿曰「譽津別王、是生年既卅、髯鬚八掬、猶泣如兒、常不言、何由矣。」因有司而議之。冬十月乙丑朔壬申、天皇立於大殿前、譽津別皇子侍之。時有鳴鵠、度大?、皇子仰觀鵠曰「是何物耶。」天皇則知皇子見鵠得言而喜之、詔左右曰「誰能捕是鳥獻之。」於是、鳥取造?天湯河板舉奏言「臣必捕而獻。」?天皇勅湯河板舉板舉、此云?儺曰「汝獻是鳥、必敦賞矣。」時湯河板舉、遠望鵠飛之方、追尋詣出雲而捕獲。或曰、得于但馬國。」の一文があり、要約すると、「垂仁天皇が即位してから23年の秋9月2日。天皇は家臣達に向かって「誉津別王(皇子)は30歳となり、髭も胸まで伸びたが、泣く様は童のようで、言葉を発する事が無い。何故だろう。」と話し、家臣達はそれぞれ議論しました。冬10月8日。天皇は大殿の前に立ち、誉津別王も待っていると鵠(コウノトリ)が居て、声をあげ大空を羽ばたいていました。すると皇子は鵠(コウノトリ)を仰ぎ見て「あれは何だ!」と発した事から、天皇は鵠(コウノトリ)見て皇子は言葉を発した事を喜び「誰かあの鳥を捕まえて献上して欲しい」と仰いました。すると、鳥取造の祖である天湯河板挙命が「私が必ず捕まえて見せます。」と言いました。天皇は湯河板舉に勅を出し「もし、お前が鳥を献上したなら、必ず褒美を与えるだろう。」と仰いました。その時、湯河板舉は遠くで鵠(コウノトリ)が飛んでいる方向を見て、出雲まで追いかけて遂に捕獲しました。あるいは、但馬国で得たとも。」と訳せます。この神話で但馬で鵠(コウノトリ)を捕まえた場所が当社の境内付近という説から社号が久々比神社と名付けられ、鵠(コウノトリ)を捕まえた天湯河板挙命が祭られていた可能性があります。

又、一説には胸形(宗像)大明神と呼ばれていた事から多紀理比売命が祭られていたという説があります。

又、「国司文書 但馬神社系譜伝」によると、天武天皇3年に物部韓国連神津主の子である久々比が城崎郡司に就任し、大宝元年(701)に死去すると三江村に葬り祠を建てたのが当社の前身と伝えられている事から、物部韓国連久々比命が祭られていたという説があります(但馬国司文書は偽書の可能性が高い事で知られる為、取り扱いは注意が必要です。今回は参考の為に記載しました)。

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