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 神社山門: 大避神社

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大避神社

大避神社(兵庫県赤穂市坂越)
【 概 要 】−大避神社は大化3年に当地を開発した秦河勝の死去に伴い、住民達が遺徳を偲んで祭ったのが創建とされます。秦河勝は聖徳太子の側近でしたが、太子が亡くなると政敵となった蘇我入鹿から排斥され、当地に流され、死去すると生島に埋葬されたと伝えられています。例祭の「坂越の船祭り」は国指定重要無形民俗文化財、漕船、楽船、御座船、警護船、歌船が兵庫県指定有形民俗文化財に指定されています。

【 場 所 】−兵庫県赤穂市坂越

【 構 造 】−入母屋、本瓦葺、三間一戸、八脚単層門

【 備 考 】−大避神社の祭神である秦河勝は中国出身の氏族とされる秦氏出身の人物で、秦氏は中国の秦の始皇帝の後裔の末裔とも云われています。日本書紀の推古天皇11年(603)11月の条には聖徳太子から仏像を賜り損野に蜂岡寺(現在の広隆寺)を創建した事が記されています。同じく日本書紀の推古天皇18年(610)10月の条には朝鮮半島の新羅と任那の使者が朝廷に訪れた際、土部菟と共に使節を迎える導者に担った事が記されています。同じく日本書紀の皇極天皇3年(644)7月の条には不尽河(駿河国富士川)付近で、大生部多が教祖となり、蚕のような虫を常世神として崇めると富と長寿が得られるという宗教を流布した為、その宗教集団を追討した事が記されています。明確な事は上記の記事のみで、平安時代初期に成立した聖徳太子の伝記である「上宮聖徳太子伝補闕記」や延喜17年(917)に成立した「聖徳太子伝暦」には用明天皇2年(587)に発生した丁未の乱で聖徳太子に従軍し物部守屋を討ち取った事や、官位が与えられた事が記載されています。その他は伝承の域を出ませんが、平安京の造成、伊勢神宮の創建、会計制度の確立、猿楽の祖、能楽の祖、聖徳太子の側近だったとされます。その為、皇極3年(644)に聖徳太子が亡くなると、政敵だった蘇我入鹿の追討を受け播磨国に逃避した、又は流されたとの伝説が伝えられました。ただし、秦河勝と播磨国を結ぶ、明確な資料は無く、伝説や伝承の類があたかも事実だったように語り継がれています。

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