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 筑波山神社(茨城県つくば市)

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筑波山神社・神社山門:写真

筑波山神社(茨城県つくば市)

筑波山神社:概要

筑波山神社(茨城県つくば市)は筑波山を御神体とする素朴な自然崇拝が発展したと思われる神社です。古代人は自然に神が宿ると考え、特に筑波山のような独立峰は信仰の対象となりました。筑波山神社ではイザナギノミコト・イザナミノミコトが国産みをした際、最初に作った島であるオノゴロ島を筑波山であるとして、祭神の根拠としていますが、一般的にオノゴロ島は近畿地方より西側に多くの候補地があるものの東日本には余り聞いた事がなく、神話が記された奈良時代には権力の中枢が近畿にあり当然と言えば当然かもしれません。そして、筑波山神社の創建年を崇神天皇の時代としていますが、この崇神天皇も実在したのかも明確ではなく、在位期間も不詳、素直に計算すれば紀元前の人物という事になり、卑弥呼の時代より200年程前になります。一方、実在したと明確な天皇から一定期間(在位期間を10年程度)を割り振ると崇神天皇は4世紀頃に活躍した事になり、こちらの説の方が真実味があります。又、養老年間(717〜723年)に編纂された推定される常陸国風土記によると大化元年(645)の大化の改新の直後に常陸国立国している事から実際に神社として確立したのは、この頃以降の事と思われます。ただし、信仰という意味では上記のように筑波山は古代から信仰されていた霊山の為、山頂には祠程度の施設、平地では遥拝所や祭祀場のようなものがあったのかも知れません。

崇神天皇の時代よりやや時代が下がった景行天皇の時代には皇子である日本武尊が東国平定を完遂し、その凱旋帰国の際に筑波山を登拝し、その時の様子を甲斐国酒折宮で「にひばり筑波をすぎて幾夜かねつる」と初めて連歌を詠んだ事から筑波山は連歌発祥の地とも云われています。この日本武尊も実在するのかは不詳ですが「常陸国風土記」には「倭武の天皇」として度々登場している事から奈良時代に日本武尊伝説が常陸国でも流布していた事が窺えます。その後は朝廷内でも筑波山は知られる存在となり、歌枕の地として歌や文学作品に数多く登場するようになり、そこに祭られていた筑波山神社も格式の高い神社として認識されました。奈良時代に入ると修験僧が神聖や山々で修行を行うようになり、神道と仏教が双方同時に信仰される神仏習合の形態が各地で発生し、筑波山も例外にもれず次第に習合していきました。特に、名僧として知られる伝教大師最澄(日本天台宗開祖)や弘法大師空海(真言宗開祖)と並び称される徳一大師が筑波山の中腹に中禅寺を開き、以後、中禅寺が筑波山神社の祭祀を司るようになります。中世以降は歴代領主、為政者から信仰を集め多大な社領(寺領)の安堵や社殿の営繕工事が繰り返し行われ、近世は庶民の行楽思考の拡大に伴い、参道に繋がる街道は多くの参拝者で溢れたそうです。しかし、明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈運動により中禅寺は廃寺、多くの堂舎は破却、又は関係寺院に移築され、大きく姿を変えました。現在残されている神社山門は中禅寺の仁王門として江戸時代後期の文化8年(1811)に造営されたもので、現在は随神(左:倭健命・右:豊木入日子命)が安置されつくば市指定文化財に指定されています(仁王像はつくば市松塚に境内を構える東福寺に遷されています)。

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