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 神社山門: 尾山神社

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尾山神社

尾山神社(石川県金沢市尾山町)

尾山神社(石川県金沢市尾山町)

【 概 要 】−尾山神社の前身である卯辰八幡社の創建は慶長4年(1599)、前田利長の崇敬社だった物部神社(富山県高岡市)の境内に祭られていた八幡社の分霊を勧請し、密かに前田利家の御霊を合祀したのが始まりとされる神社です。明治6年(1873)に前田利家の御霊が現在地に遷座し尾山神社となり、卯辰八幡社は宇多須神社に社号を改めています。明治8年には洋風建築の技術が導入された当時としては斬新な神社山門(楼門)が建立され話題になったそうです。

【 場 所 】−石川県金沢市尾山町

【 構 造 】−入母屋、本瓦葺、三間一戸、八脚楼門国指定重要文化財

【 備 考 】−慶長3年(1598)、豊臣秀吉が死去すると、政権運営は徳川家康が担うようになり、一方、豊臣秀頼の守役として前田利家が対峙する構図となりました。利家は人望が篤かった事から関ケ原の戦いで東軍に与した武断派の武将の一部も当時は利家派に靡き家康の動きを牽制する事が出来ました。

しかし、慶長4年(1599)に利家が死没すると豊臣家臣団は大きく動揺し形成は大きく家康に傾きました。利家は自分が死ぬと家康が台頭する事を察し、嫡男の利長は大坂城に8千の兵を詰めさせ秀頼様を守護、2男の利政は金沢城に戻り8千の兵で領内を守護、大坂で秀頼様に謀反する者が入れば利政は8千の兵を率いて上洛し兄弟力を合わせて事にあたるようにと遺言を残しました。

しかし、利長は利家の遺言を無視し家康の命に従い大坂城を事実上徳川家に引き渡し8千の兵と共に金沢城に引き上げました。すると徳川家に従ったはずの利長が何故か謀反を企んでいると因縁を付けられ加賀征伐が発令されます。

豊臣家から見ると既に豊家を見限り徳川家に与した前田家を助ける道理もなく、後ろ盾を失った利長は生母である芳春院と腹違いの弟である前田利孝を徳川家に人質に出し、さらに養嗣子(腹違いの弟)である前田利常と家康の孫娘である珠姫(徳川秀忠娘)の婚約させるなど絶対的な忠誠が求められました。

一方、家臣達からは不満が続出し、さらに、前田利家を祭る神社が求められるも、徳川家に敵対した利家を公然と祭る訳にもいかず微妙な舵取りが必要となりました。そこで利長は守山城の城主時代に信仰した物部八幡宮と榊葉神明宮を祭る事を名目で卯辰八幡社を創建し、密かに利家の御霊を合祀する事で、体面的には別の神社を装いながら実は利家を奉斎しました。

明治時代に入ると卯辰八幡社の荒廃が進んだ為、公然と利家を祭る新たな神社が求められ、尾山神社が創建されています。

尾山神社:動画

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