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 小菅神社(長野県飯山市)

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小菅神社・神社山門:写真

小菅神社(長野県飯山市)

小菅神社(旧大聖院):概要

小菅神社長野県飯山市)が何時頃から信仰されたのかは判りませんが、周辺には縄文時代や弥生時代の遺跡が点在する事から小菅山自体を敬う素朴な自然崇拝が原型だったと思われます。後年に編纂された社伝には役行者や行基菩薩、坂上田村麻呂、鷲尾中将、弘法大師空海、源頼朝など名僧や武将が小菅神社の創建や発展に大きく関わったとされますが、それを裏付ける一級資料は現在のところ発見されていません。一方、小菅神社が所有する最古の遺物である「木造馬頭観世音菩薩坐像」は桂材、一木造、像高35.3cm、形状などから平安時代後期に制作されたと推定される古仏で長く小菅権現と呼ばれていた事から明確な文献が無いものの、少なくとも平安時代後期には小菅神社が存在し神仏習合の形態だった事が窺えます。又、当地は熊野大社の荘園となった事から熊野信仰と大きく関わる事となり、地元神である小菅神に熊野神が合祀され、さらに、修験道場として発展する過程で全国の主要な神が合祀され八所権現と称するに至ったと思われます。中世には小菅神社の社領を挟んで高梨氏と市河氏が領していた為、鎌倉幕府が衰退し世情が不安定になると両者の対立が顕著になり南北朝の動乱を経て室町幕府が確立するまで戦乱が続き、小菅神社も被害を受けたと思われます。その後は随時堂宇、社殿が随時造営され、周辺の土豪や有力者から数々の宝物が奉納寄進が繰り返され、小菅神社の信仰が広範囲に波及し広く信仰されるようになっています。特に、北信濃が越後の上杉謙信(春日山城の城主)の勢力圏に入ると謙信から篤く庇護され、跡を継いだ上杉景勝も方針を継承し奥社本殿が寄進されています。上杉家がこの地を去ると衰微しますが、江戸時代にも飯山藩(本城:飯山城)の庇護により引き続き信仰が続き一定の勢力が維持されました。明治時代の神仏分離令や修験道廃止令、廃仏毀釈運動などにより、別当寺院だった元隆寺大聖院が廃寺となり小菅神社から仏教色が一掃されています。

小菅神社の神門は、別当寺院だった元隆寺大聖院の山門だった建物で、元禄10年(1697)に改築、入母屋、鉄板葺、三間一戸、八脚単層門、明治時代に神社に転身した多くは随神が安置されましたが、小菅神社は引き続き仁王像が安置され続け、仁王尊堂(仁王門)と呼ばれています。多くの、社殿、堂宇が失われ、門前町も往時の賑わいは失われましたが、現在でも参道の左右には神仏習合時代の建物が点在し、名称「小菅の里及び小菅山の文化的景観」として国指定重要文化的景観に指定されています。又、小菅神社の例大祭で神仏習合時代から続く、2本の柱を用い五穀豊穣、天下太平を祈願する御柱行事が名称「小菅の柱松行事」として国指定重要無形民俗文化財に指定されています。

長野県の神社山門
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