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 諏訪大社上社本宮(信濃一之宮)

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諏訪大社上社本宮・神社山門:写真

諏訪大社本宮(信濃一之宮)

諏訪大社上社本宮(信濃一之宮):概要

諏訪大社の祭神である建御名方神は奈良時代の和銅5年(712)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上された日本最古の歴史書である「古事記」によると、当時、葦原中国(日本と思われる)を治めていた大国主神の御子神で、天津神の建御雷神から「国譲り」を迫られた際、兄神である事代主神はあっさりと認めたのにも関わらず、建御名方神は建御雷神に力競べに及んだとされます。結局、建御名方神は力競べに敗れ科野国州羽海(長野県諏訪湖)まで追い詰められ、この地から離れない事や天津神に逆らわない事を条件に殺されずに済んだと記されています。「先代旧事本紀」「地祇本紀(地神本紀)」では同様の神話が収められていると共に、建御名方神が諏訪大社の祭神になった事が記載されています。単純に読み取れば建御名方神は出雲国(島根県)出身の神で、朝廷の前身と思われる勢力に侵攻され、敗れて諏訪地方に左遷されたような印象を受けます。

一方、当地に伝わる伝説によると諏訪地方は洩矢神が土着神として信仰される地域で、そこに建御名方神が藤蔓を持って侵攻し、洩矢神は鉄輪を持って応戦、激しい戦いの末に建御名方神が勝利したと伝えられています。又、手長神、足長神も諏訪地方の土着神で、諏訪湖で漁撈などで生計を立てていたところ建御名方神の侵攻を受け従ったという伝説も残されています。系譜上は手長神、足長神の御子神が大国主神とされる事から、建御名方神から見ると祖父祖母に戦いを挑んだ事になります。

日本書紀や、出雲風土記には出雲での国譲り神話が記載されていない事から、実際に国譲りは行われてはおらず、諏訪地方の伝説を好守逆にして古事記に挿入したという説もあります。又、日本海側の上越地方には、高志国(現在の福井県から新潟県)の姫である奴奈川姫(沼河比売・奴奈宜波比売)と婚儀を結んだ大国主神の御子神を建御名方神とし、信州と越後を結ぶ千国街道沿いには多くの諏訪神社が鎮座しているのも興味深いところです(上越市の明静院の境内が建御名方神の出産地としています)。何れにしても建御名方神は日本海側から信濃に侵攻し諏訪地方を本拠地としたようです。その後、建御名方神の後裔である諏訪氏が諏訪大社上社の大祝家を歴任し、敗れた洩矢神の後裔である守矢氏は筆頭神官である神長を歴任しています。

諏訪大社の大祝とは建御名方神の後裔とされる諏訪家(下社は金刺氏)の嫡男を依代にして建御名方神をその身に下ろし現人神として諏訪信仰の頂点に位置付けた役職の事で、絶対的な権力を有していました。中世に入ると大祝家(諏訪家)を中心として領地を守護する武装集団が結成され、戦国時代には周辺にも影響を及ぼす戦国大名に成長しています。武田信玄の諏訪侵攻により正当な血統は途絶えましたが、その一族は徳川家に与し江戸時代に入り高島藩主として復権しています。しかし、諏訪大社では政教分離が行われ、同じ諏訪一族ながら藩主家と大祝家とは形式的には独立した存在となっています。大祝の即位式は江戸時代末期の天保12年(1841)まで行われていましたが、明治時代になると神官世襲制度が廃止されその意義も失われています。

諏訪大社上社本宮の四脚門は慶長13年(1609)に徳川家康の造営によるもので、切妻、銅板葺き、一間一戸、四脚門形式、棟梁は藤森広八包近(治郎左衛門)、昭和58年(1983)に国指定重要文化財に指定されています。日本神社100選

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