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 戸隠神社(戸隠山勧修院顕光寺)

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戸隠神社・神社山門:写真

戸隠神社(戸隠山勧修院顕光寺)

戸隠神社(長野市):概要

戸隠神社が何時頃に信仰を始めたのかは判りませんが、御神体である戸隠山は水源地だった事から古代人から神聖視されていたと思われます。現在、戸隠神社奥社に隣接する九頭龍社に祭られている九頭竜大神は水神である為、戸隠山信仰の初源と思われます。平安時代に入ると、全国的に神聖な山は修験僧の修行の場として整備され神道と仏教が同時に信仰される神仏習合の形態が行われるようになり、戸隠山は隣接する飯縄山を開山した「学問」という修験僧により開かれました。さらに、時代が下がると戸隠山勧修院顕光寺が開山し、戸隠山は一大修験道の聖地として修験僧達が多くの坊舎を構えた事から「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれるようになり比叡山の「三塔十六谷三千坊」、高野山(詳細は不詳ですが最盛期には2千余の堂舎が構えられていたとされます)と共に「三千坊三山」に数えられたそうです。本当に戸隠山に三千の坊舎があったのかは判りませんが、全国には青森県の津軽三千坊や、新潟県の山寺三千坊などがあり、一見して数えきれない程坊舎がある場合には例えとして「三千坊」を称したに過ぎないのかも知れません。その後は衰微したものの、通常の一寺院とは異なり多くの信者を擁していた事から北信濃において善光寺長野県長野市)や元隆寺大聖院(現在の小菅神社)(長野県飯山市小菅)と共に無視出来ない影響力がありました。

戦国時代に入り、武田信玄(躑躅ヶ崎館の城主)が北信濃まで侵攻すると、当地が越後の上杉領と甲斐の武田家領の境界近くにあった為、両陣営からの囲い込みがあり、永禄元年(1558)には武田信玄による戦勝祈願の願状が奉納され永禄4年(1561)の第四次川中島合戦に及んでいます(現在、戸隠神社では武田信玄面頬とされるものが伝わっています)。しかし、永禄7年(1564)に発生した第五次川中島合戦の兵火(上杉謙信の戸隠攻め)により戸隠山勧修院顕光寺は全山焼失し、戸隠の衆徒70余名は筏ヶ峰(現在の長野県上水内郡小川村)に密かに逃れ信仰を続けました。筏ヶ峰時代には武田家に従った小河荘(小川庄)の領主である大日方氏が庇護し、小川の地は後世まで「坊」と呼ばれました。天正10年(1582)に武田家が滅び、一端支配者となった織田信長(安土城の城主)も本能寺の変に倒れた為、北信濃は越後の上杉景勝が支配するようになり(大日方氏は上杉方と小笠原氏方に分かれ、小川の地にあった一族は上杉方に属したとされます)、文禄3年(1594)その景勝の支援を受け、戸隠山の再興が図られました。

慶長3年(1598)に上杉景勝が春日山城新潟県上越市)から会津鶴ヶ城(福島県会津若松市)に移封になると庇護者を失いますが、江戸時代には幕府から朱印地1千石が安堵され、信濃天台宗寺院の元締めに定められました。しかし、幕府との繋がりから東叡山寛永寺(東京都台東区上野桜木)の末寺に組み込まれ、寛永寺や日光輪王寺(栃木県日光市)から役人や役僧が派遣され「戸隠山法度」が定められるなど不自由な体制となりました。一方、小川地区の代官となった小川氏とは関係が深く親交があったようです。明治時代初頭に発令された神仏分離令と、修験道廃止令により勧修院顕光寺と戸隠神社は分離して、僧侶は還俗して戸隠神社の神官となりました。現在、戸隠神社奥社に続く参道には神仏習合時代の仁王門だった思われる随神門(寄棟、茅葺、三間一戸、八脚単層門、外壁は真壁造り、板張り、朱塗り仕上げ、左右に随神安置)が残され、当時の名残が見られます。

長野県の神社山門
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