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 神社山門: 蒼柴神社

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蒼柴神社

蒼柴神社(新潟県長岡市)と長岡城

蒼柴神社・長岡城:概要

牧野忠辰は長岡藩2代藩主牧野忠成の長男として寛文5年(1665)に生まれ、延宝2年(1674)に忠成の死没に伴い3代藩主に就任しました。元服に伴い延宝7年(1679)に従五位下、駿河守に叙任、天和元年(1681)には高田藩松平家が改易となり高田城(新潟県上越市)の受け取りという大役や、朝鮮通信使の接待役なども行っています。長岡藩の藩政については諸士法制の徹底や殖産興業政策、消防制度の確立などに尽力し、初代牧野忠成と9代牧野忠精と共に長岡藩三名君に数えられました。享保7年(1722)に死去、享年58歳、菩提は牧野家の江戸菩提寺である池上本門寺(東京都大田区池上)に葬られました。牧野忠成は側室との間に1男2女を儲けていましたが、何れも早世した為、家督は本多康慶の6男忠寿を養子として迎えていた事から死去する前年に忠寿が4代藩主を就任しています。忠寿は牧野家の縁戚ではあるものの、他家からの養子であった事から、譜代の家臣を掌握する為、忠成が神道を信仰していた事を理由に長岡城(新潟県長岡市)の一角に社を設け忠成を祭りました。

享保7年(1722)に三蔵火事が発生。三蔵火事は三蔵と門左衛門の喧嘩から、最後は三蔵が放火、これが原因となり長岡城をはじめ城下町の大部分が焼失し長岡藩史上最大の火事となりました。長岡城の火事により忠成の祭った社も焼失、これを機に長岡城の城外に町割りされた千手町に鎮座した八幡社に遷座し、社の再建が成すと再び戻されています。一方、長岡城の再建には幕府から借財したものの再建には26年間もかかり、その間藩の財政も猛烈に悪化しました。享保18年(1733)に京都の吉田家から明神号を賜り「蒼柴明神」となり、明和8年(1771)にはさらに大明神号を賜り「蒼柴大明神」となりました。明和3年(1766)に牧野忠精が9代藩主に就任した頃から本格的な社殿を有する蒼柴神社の創建が計画されていましたが、大明神号を賜った事に伴い天明元年(1781)から三官山の造成と社殿の造営が行われ、三官山も悠久山に名称変更が成されました。

慶応4年(1868)の戊辰戦争(北越戦争)の際には戦場となり、長岡城は落城、蒼柴神社にも戦禍が及びましたが奇跡的に焼失は免れています。長岡城が落城すると長岡藩は一時栃尾に撤退し交戦を続けた関係で祭神も栃尾に遷されましたが、明治2年(1869)に再び蒼柴神社に戻されています。その後は長岡藩の聖地として整備が行われ、明治7年(1874)に戊辰戦争、西南戦争の戦死者を祀る招魂社が創建、河井継之助(軍事総督)碑、山本帯刀(大隊長)碑が悠久山に移転、昭和58年(1983)には牧野家の江戸菩提寺である済海寺(東京都港区三田四丁目)から歴代長岡藩主牧野家の墓碑が、平成7年(1994)に池上本門寺から牧野忠辰の墓碑が蒼柴神社の境内に移転しています。

蒼柴神社の神社山門は入母屋、銅板葺き、三間一戸、八脚単層門。

蒼柴神社:動画

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