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 神社山門: 藤基神社

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藤基神社

藤基神社(村上城)

藤基神社・村上城:概要

藤基神社(新潟県村上市)は村上藩の藩庁である村上城の一角に設けられた神社です。元々は村上藩の江戸藩邸に内藤信成が祭られていた小堂でしたが、江戸時代末期に現在地に社殿が造営され藤基神社の境内が整備されました。明治時代以降、藤基神社は村上藩の聖地として位置づけられ、関係者の様々な石碑が建立されています。一つは鳥居三十郎碑(顕彰碑)です。鳥居三十郎は村上藩の家老を歴任していた鳥居家の嫡男として村上城の三の丸で生まれました。

戊辰戦争の際、村上藩は会津藩(福島県会津若松市・本城:会津鶴ヶ城)や長岡藩(新潟県長岡市・本城:長岡城)を主力とする奥羽越列藩同盟に参加しましたが、新政府軍が村上城に迫ると、家臣内で交戦派と基順派に分裂し、このままでは混乱のまま村上城も城下町も戦禍を被ると察した鳥居三十郎は交戦派を率いて村上城を後にし、同盟軍方の庄内藩(山形県鶴岡市・本城:鶴ヶ岡城)に向かい、基順派は新政府軍に降伏し、村上城下での被害は免れました(村上城は原因不明の失火により焼失)。庄内藩が新政府軍に降伏すると鳥居三十郎も捕縛、一端東京に送られてから死罪を言い渡され、村上城の城下にある安泰寺に幽閉されました。しかし、村上では鳥居三十郎の評価が高く、密かに切腹の場が設けられ、明治2年(1869)6月25日名誉の死を遂げました(享年29歳)。鳥居三十郎碑(顕彰碑)が藤基神社の境内に建立されたは明治22年(1889)の事で、新政府軍から賊軍として処罰された人物の石碑が比較的早い時期に建立されたは珍しいと言えます。

村上藩士殉難碑は明治43年(1910)に藤基神社の境内に建立されたもので、戊辰戦争前後に所謂「関係死」した、鳥居三十郎、小田部重蔵、菅三子次郎、浅井土左衛門、牧大助、依田錬次郎、中島大蔵、柴田耕治、大栗峰右衛門、江阪與兵衛、加茂敬吉、梅澤喜齋、佐藤文吉、進藤多吉、關菊太郎、中根勘之丞、島田鐵弥、八幡萬里之助の名前が刻まれています。村上藩は交戦派と基順派の犠牲者、鳥居三十郎の死罪を巡る江坂与兵衛暗殺事件の被害者と加害者、村上城炎上による被害者を網羅した珍しい石碑とも云われています。

種川碑は村上藩の藩士である青砥武平治の頌徳の碑です。青砥武平治は世界で最初にサケの母川回帰性を発見した人物と言われる人物で、村上城の城下を流る三面川をサケの産卵に適した環境を30年間に渡り整備したり、「種川の制」を制定した事で漁獲高を飛躍的に挙げ、現在でもサケは村上市の名産となっています。忠魂碑は村上藩の旧士族関係者が日清戦争、日露戦争で犠牲になった人々の慰霊碑として藤基神社の境内に建てられています。藤基神社の境内は社殿や石碑、旧村上城石垣石段など含め貴重な事から村上市指定史跡に指定されています。

藤基神社には神社山門が2門残され、格式が感じられます。

藤基神社:動画

新潟県の神社山門
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