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 神社山門: 久能山東照宮

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久能山東照宮

久能山東照宮(静岡県静岡市駿河区)

久能山東照宮(静岡県静岡市駿河区)

久能山東照宮(静岡県静岡市駿河区)

久能山東照宮(静岡県静岡市駿河区)

久能山東照宮(静岡県静岡市駿河区)

【 概 要 】久能山東照宮は元和2年(1616)に徳川家康が死没後に埋葬された場所に創建された神社です。家康は遺言で、遺骸は久能山(静岡県)、御霊は日光(栃木県)、葬儀は江戸の増上寺、位牌は三河(愛知県)の大樹寺と定めた為、家康が死没、早々に社殿の造営が開始されています。久能山東照宮社殿(霊廟建築)は当時の建築、土木の技術や、彫刻や絵画などの芸術を極めたもので、社殿は「権現造」という独自のものを採用し、後に全国で創建された東照宮の規範となっています。本殿、拝殿、石ノ間が国宝に指定されています。

【 場 所 】静岡県静岡市駿河区根古屋

【 構 造 】−切妻、銅板葺、三間一戸、四脚門・入母屋、本瓦形銅板葺、三間一戸、八脚楼門・唐門、本瓦形銅板葺、一間一戸・切妻、本瓦形銅板葺、一間一戸、薬医門・唐門、本瓦形銅板葺、一間一戸

【 備 考 】−よく、久能山から日光を直線で結ぶと富士山の山頂付近を通過する事から、「不二山」を超える事で「不死」となり永遠の存在になる事や、久能山の西方の直線上には家康の生母である於大の方が子宝祈願した鳳来寺、さらに西方には松平家の菩提寺である大樹寺が境内を構えているよう計画されている説が流布しています。確かに地図上はそのように位置関係にありますが、個人的にはどうも納得出来ないものがあります。当時の技術でも方角や距離などある程度正確に計測出来るとは思いますが、家康が病床の中で自分の埋葬地を決める為に態々その測量を行ったとは到底考えらず、病床前に行ったとすれば早くから久能山に聖地となる何らかな施設が設けられていたはずです。又、家康の霊廟は真西では無く、西北西の方角を向いている事からその延長には居城である駿河城にあり、家康は生前に「久能山は駿府城の本丸と常に思召す」と言ったとの逸話も残されています。実際、当地が武田家に支配されていた時は久能山には巨大な山城(久能山城)が築かれ、岩櫃城(群馬県吾妻郡吾妻町平沢)、岩殿城(山梨県大月市賑岡町)と共に武田三名城に数えられ、家康は駿府城の詰め城として想定していたのかも知れません。もう一方の日光ですが、家康は日光山(男体山)に小堂を建てよと言ったのであって、現在地である日光山内に壮麗な社殿を建てよとは言っていません。日光山(男体山)の山頂こそが聖地中の聖地で、日光山内はその遥拝施設である事を鑑みても、家康は山頂の小堂から関東平野を見下ろし関八州の守護神になろうとした事は明白です。当然、久能山と日光山(男体山)を結ぶと富士山の山頂からは外れる事になります。日光山内に日光東照宮を設けようとしたのは、天海大僧正が天台宗の興隆の為、天台宗の名刹である輪王寺と徳川家と関係を深める為と推察される為、富士山云々は後付けに過ぎないと思います。因みに久能山には元々「補陀落山久能寺」が境内を構え、日光山(男体山)の山麓には二荒山神社中宮祠の神宮寺である「補陀落山中禅寺」が境内を構えています。両寺とも山号が「補陀落山」と何故か一致しています。

静岡県の神社山門
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下田八幡神社富士山本宮浅間大社二宮神社淡海国玉神社
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