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 神社山門: 静岡浅間神社

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静岡浅間神社

静岡浅間神社(静岡県静岡市葵区)

静岡浅間神社(静岡県静岡市葵区)

【 概 要 】−静岡浅間神社は崇神天皇の御代に創建した神社である神部神社と延喜元年(901)に創建した浅間神社、応神天皇4年(273)に創建した大歳御祖神社の3社の総称です。延喜式神名帳では式内社として記載されるなど何れも神社も古くから格式が高く歴代領主から崇敬庇護されました。中世、駿河国、遠江国の守護となった今川氏は当社を氏神として庇護した事で社運が隆盛し、今川氏が滅んだ後も領主となった徳川家康が幼少期に縁を持っていた事から引き続き庇護しました。静岡浅間神社はそのような関係から江戸時代には社領2313石が安堵され、3代将軍徳川家光も社殿(本殿・拝殿・楼門)を造営しています。

【 場 所 】−静岡県静岡市葵区

【 構 造 】−切妻、本瓦形銅板葺、三間一戸、八脚単層門・入母屋、本瓦形銅板葺、三間一戸、八脚楼門

【 備 考 】−社号から察すると三社の内、浅間神社が中心的な存在と思いましたが、由緒をじっくり読んでみると、古代当地を開発した豪族の氏神を祭った神部神社と、元々の地元神として信仰された奈吾屋神社の後継神社である大歳御祖神社が重要である事が判ります。駿河国が立国する以前、当地域(静岡県中心部)は廬原国に属し、初代国造は日本武尊の東国平定に従った吉備建彦が当地を与えられ、子供である意加部彦が就任したとされます。平安時代初期の弘仁6年(815)に嵯峨天皇の勅命で成立した古代氏族名鑑である「新撰姓氏録」によると右京皇別の廬原公は笠朝臣同祖で稚武彦命之後也として「孫吉備武彦命。景行天皇御世。被遣東方。伐毛人及凶鬼神。到于阿倍廬原国。復命之日以廬原国給之」とあり、資料性についは疑義が残る「先代旧事本紀」の「国造本記」によると廬原国造は「成務朝の御代に、池田坂井君の祖・吉備武彦命の子の思加部彦命を国造に定められた。」とあります。

神部神社の由緒上は崇神天皇の御代に創建した事になっているものの、実際は景行天皇よりやや下がった時代に意加部彦によって祖神を勧請して創建されたと考える方が自然ですが、その後裔とされる庵原氏は静岡県静岡市清水区を本拠としている為説得力が欠けます。一方、大歳御祖神社の前身である奈吾屋神社は渡来系氏族である秦氏の一族である倭文部が当地に配された際、氏神として祭ったとの説もあります。さらに、久能山東照宮が鎮座している事でも知られる久能山に以前境内を構えていた補陀落山久能寺には推古天皇の御代に秦河勝の子供(又は孫)である秦久能、又は久能忠仁が創建したとの由緒が残され、静岡市西部の服織に境内を構えていた建穂寺も秦氏が氏寺として創建したとの伝承を持っています。

秦氏、又は倭文部は文字通り「機織」や「服飾」、「織物」に関係が深い氏族とされ、静岡浅間神社が境内を構える賤機山も秦氏や倭文部を連想させる地名の1つで、当社で奉納される古式稚児舞楽は、建穂寺の稚児舞いが源流であると云われている事から関係性が窺えます。以上の事から察すると、廬原国時代は静岡市清水区が中心的な存在だったものの、駿河国が立国した以降に国府が現在の静岡市中心部に遷され、同時に廬原氏の祖神が祭られていた神部神社が当地に遷座し駿河国の惣社に定められとも考えられます。しかし、そのような記録が残っている訳ではありませんので推測の域は出ません。

静岡県の神社山門
府八幡宮富士浅間宮静岡浅間神社久能山東照宮東口本宮冨士浅間神社三嶋大社湊神社
下田八幡神社富士山本宮浅間大社二宮神社淡海国玉神社
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