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 神社山門: 那須神社

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那須神社

那須神社(栃木県大田原市南金丸)
【 概 要 】那須神社は仁徳年間に奈良別命(下野国造)によって創建された古社です。坂上田村麿や源義家など戦勝祈願に訪れ、特に長く当地を支配した那須家が崇敬庇護しました。特に、源平合戦で活躍した那須与一が平家の扇を弓で打ち抜く際、心の中で祈願した神社としても知られています。那須家は戦国時代に衰退しますが、その一族である大関氏が大田原藩主となった為、引き続き庇護が続き社運も隆盛しました。那須神社本殿と楼門(神社山門)は江戸時代初期に造営された貴重な建物で国指定重要文化財に指定されています。

【 場 所 】栃木県大田原市南金丸

【 構 造 】−入母屋、銅板葺き、三間一戸、八脚楼門

【 備 考 】−奈良別命は第10代崇神天皇皇子である豊城入彦命の4代、又は6代後裔とされ、資料的な価値が疑問視されている「先代旧事本紀」の「国造本紀」によると「仁徳朝の御世に、元は1つだった毛野を上毛野と下毛野に分割した。豊城命の四世孫の奈良別を初めて国造に定められた。」とあります。嵯峨天皇の勅命により弘仁6年(815)に編纂された古代氏族名鑑である「新撰姓氏録」によると、左京皇別の大網公の上毛野朝臣同祖として「豊城入彦命六世孫下毛君奈良弟真若君之後也」とあり、左京皇別の吉弥侯部の上毛野朝臣同祖として「豊城入彦命六世孫奈良君之後也」とあります。奈良別命が実在するとなると4世紀の人物という事になりますが、考古資料などからは上毛野と下毛野が分離したのは5世紀末から6世紀初頭とする説が有力とされる為、矛盾する事になります。ただし、4世紀には東北地方南部にも大型の前方後円墳が見られる事から当地方が全くの空白域や、蝦夷の支配地域だった訳でもなく、古代の官道である東山道とも大きく離れていない場所に位置している事から何らかな宗教施設として設けられた可能性も否定出来ません。一方、現在の那須地方一帯が那須国造の支配領域とすれば、当社は那須国造と関係が深い神社という事になり、六国史や延喜式神名帳にも記載されていない事から当初は有力な神社では無かったとも言えます。平家物語で那須与一の台詞の「南無八幡菩薩」は当社の事とされ、与一が奉納したという平安時代末期、銘成高の太刀(栃木県指定重要文化財)を所有している事から平安時代には既に成立していた可能性がありますが、平家物語は軍記物語の為に細部の台詞などには脚色も多く、そもそも「南無八幡菩薩」が当社という確証もありません。又、太刀も後年奉納された可能性も捨てきれない事も事実です。一方、文和4年(1355)に当社に奉納された銅製鰐口には「文和ニニ季乙未八月十五日敬白」と「那須庄福原南金丸八幡宮大旦那藤原忠彷并江州」の銘がある事から、那須神社の旧社号である「金丸八幡宮」と奉納した年号、大旦那として寄進した人物名(藤原忠彷并江州は那須家の一族と推定されています)が明確となっています。

栃木県の神社山門
那須神社太平山神社木幡神社鷲子山上神社長沼八幡宮賀蘇山神社尾出山神社高椅神社
須賀神社二荒山神社朝日森天満宮唐沢山神社今宮神社佐野東照宮日光東照宮(陽明門)
二荒山神社滝尾神社二荒山神社中宮祠
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