※このサイトは境内に山門(門扉)がある神社の写真や、私論、感想を掲載しています。

 神社山門: 大井俣窪八幡神社

  全国の観光と歴史的建築物(ホーム)全国の神社山門山梨県>大井俣窪八幡神社(山梨市北)

大井俣窪八幡神社

大井俣窪八幡神社(山梨県山梨市北)
【 概 要 】−大井俣窪八幡神社は清和天皇の勅願により貞観元年(859)に創建した古社です。中島大井俣の地に鎮座していましたが康平年間(1058〜1065)に新羅三郎義光により現在に遷座され、以来、甲斐源氏やその後裔である武田家など歴代領主から崇敬庇護されます。江戸時代に入ると徳川家から所領が安堵されるなど庇護され社運も隆盛しています。境内には室町時代から江戸時代にかけて建てられた数多く社殿群が残され、多くが国指定重要文化財に指定されています。又、神仏習合時代の山門や鐘楼などの名残も見られます。

【 場 所 】−山梨県山梨市北

【 構 造 】−切妻、桧皮葺き、一間一戸、四脚門、国指定重要文化財

【 備 考 】−当社は平安時代に成立した延喜式神名帳に式内小社として記載された「大井俣神社」の論社とされます。延喜式神名帳は当時の格式のある神社を列記した一級資料として知られ、この神名帳に記載されている事は即ち神社の歴史性や格式を担保する事になり、他社と比較する上での尺度となります。その為、信者の獲得や領主の庇護を得る為に多くの神社が自らを式内社を主張します。

大井俣神社に関しては、当社の他、大井俣神社(山梨県山梨市小原西)、二宮神社(山梨県甲府市川田町)、諏訪神社(山梨県北杜市長坂町大井ヶ森)の3社、合計4社が論社とされ、何れも確証がありません。当社に限ってみれば、元々八幡神が祭っていたのか、あるいは武田氏が領主になった際に庇護を得る為に甲斐源氏の氏神である八幡神を祭るようにしたのかは判りませんが、中世以降に武田家から篤く信仰されるようになったとされます。

歴史的に明瞭になるのは本殿の墨書の永正16年(1519)で、永正13年(1516)に今川家との闘いがあった事からその年に再建を図ったと推察する事が出来ます。これ以後は武田家と当社との関わりが確かなものとなり社殿の造営や参拝などが繰り返し行われるようになっています。

当時の武田家の本拠は石和館(川田館)にあり、その近くに鎮座していた石和八幡宮が信仰の中心だったと思われますが、当社が再建された永正16年(1519)は石和館から躑躅ヶ崎館に甲斐守護所を移した年でもあり当社がどの様な立場だったのかは良く判りません。何れにしても、その後も篤く庇護され続けている事を見ると武田家にとって当社が特別な存在だった事が窺えます。

大井俣窪八幡神社:動画

川田館(山梨県甲府市):動画

山梨県の神社山門
冨士御室浅間神社八幡穂見神社北口本宮冨士浅間神社忍野浅間神社菅田天神社
武田八幡宮穂見神社江原浅間神社河口浅間神社比志神社表門神社石和八幡宮
甲斐国一宮浅間神社金井加里神社穴切大神社大嶽山那賀都神社中牧神社熱那神社
熱那神社大井俣窪八幡神社
 ※ このサイトは資料やパンフレット、案内板などを参考にしていますが、私的な見解や推察などが多分に含まれている為、最終的な確認、決断は個人で行ってください。又、文章や写真の利用は御遠慮ください。