長野県・飯田城

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【 概 要 】−飯田城は建保年間(1213〜1218年)に飯田郷の地頭に就任した坂西長由により築城されたと推定されています。一方、坂西氏が飯田郷に入ったのは室町時代初頭という説もあり、こちらが正しければ室町時代初期頃に築城された事になります。坂西氏は小笠原家に従っていましたが天文年間(1532〜1555)に武田信玄が伊那地方を席巻し、秋山信友を当地に配した事から秋山氏の組下となっています。飯田城は徳川領と接していた事もあり戦略的拠点の1つとして秋山信友により大改修が行われ強固な城郭が築かれました。武田氏が滅ぶと織田家家臣毛利秀頼が城主となり秀頼が没すると娘婿である京極高知が引き継ぎ、近世城郭と整備されます。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで戦功を立てた高知は田辺城(京都府舞鶴市・後に宮津城に入り宮津藩を立藩)に移封になると小笠原秀政が古河城(茨城県古河市)から入封となり飯田藩が立藩し、小笠原氏(5万石:秀政)、脇坂氏(5万5千石:安元・安政)と短期間で藩主が交代、寛文12年(1672)に堀親昌が2万石で入封すると明治維新まで堀家(2万石→2万7千石→1万7千石→1万5千石:親昌・親貞・親常・親賢・親庸・親蔵・親長・親忠・親民・親しげ・親義・親広)が代々藩主を勤め藩政も安定します。飯田城の本丸は東西100m、南北100m程で往時は土塀で囲われ御殿、御奥御殿など7つの建物があり南と東に櫓を設け二の丸との間にある深い空堀には「本丸御門」で出入りを制限していました。明治4年に廃城となると多くの建物は破却、払い下げとなりなりますが、桜丸御門が城内に移築されている他、二の丸御門が市内松尾久井の民家に、桜丸の門が経蔵寺、桜丸の脇門が雲彩寺にそれぞれ移築現存しています。又、本丸には堀秀政、親良、親昌、の三神を祭神とする長姫神社が建立され二の丸には水路を復元しています。
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飯田城(飯田市):周辺の見所

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