長野県・大町市・若一王子神社

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【 概 要 】−若一王子神社は垂仁天皇の時代に仁品王が伊弉冉尊の分霊を勧請し社殿を造営しました。その後、仁品王の後裔で安曇郡の領主となった仁科氏が祖霊である仁品王と妹耶姫の分霊を嘉承2年(849)に勧請合祀して氏神として崇敬庇護しました。鎌倉時代に入ると桓武平氏平繁盛の後裔とされる盛遠が安曇郡仁科荘の領主として赴任し地名に因み仁科氏に改称、承久2年(1220)熊野大社に参拝した後に熊野那智大社第五殿から若一王子神の分霊を勧請合祀し、以後、若一王子の宮、若一王寺、王子権現などと呼ばれるようになっています。以来、歴代仁科家の崇敬社として庇護され、社領の寄進や社殿の改修、造営が行われ社運も隆盛しました。天正10年(1582)、最後の当主となった仁科盛信(武田信玄の5男)が高遠城長野県伊那市高遠町)に立て籠もり、織田信忠5万の兵を迎え撃ちましたが、奮闘むなしく高遠城は落城、盛信も討死しました。若一王子神社は外護者を失い一時衰退しましたが、江戸時代に入ると歴代松本藩主から庇護され承応3年(1654)に社殿の大改修が行われ、明暦元年(1655)には幕府から社領2石5斗4合が安堵されています。若一王子神社が境内を構える大町は江戸時代に千国街道の宿場町で多くの人が往来した為、若一王子神社にも参拝者で賑わったと思われます(街道沿いには大鳥居が設けられ参拝者を境内に導くようになっています)。古くから神仏習合し別当寺院である神宮寺が祭祀を担ってきましたが、明治時代に入り神仏分離令が下ると境内の右側が神宮寺、左側が若一王子神社に分離され垣根などが設けられ社号も若一王子権現から若一王子神社に改められました。その後、神宮寺は廃仏毀釈運動などにより廃寺となり三重塔(宝永8年:1711年建築、棟梁:金原又七、三間三層、宝形、こけら葺、長野県県宝)や観音堂(宝永3年:1706年建築、宝形造、茅葺、桁行3間、梁間3間、正面1間向拝付、長野県県宝、仁科33番観音霊場第1番札所)、十一面観音立像(大町市指定文化財)、十一面観音坐像御正体残闕(長野県県宝)などが残され若一王子神社の所有となりました。現在の本殿は弘治2年(1556)に仁科盛康によって造営されたもので一間社隅木入春日造、檜皮葺、昭和30年(1955)に国指定重要文化財に指定されています。御祭神:伊弉册尊、仁品王、妹耶姫、若一王子。

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