新潟県・村上市・村上城

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【 概 要 】−村上城は舞鶴城、本庄城などと呼ばれ16世紀初頭に領主本庄氏によって築城したと言われています。本庄氏は当初春日山城の城主上杉謙信と友好的な関係でしたが論功行賞などで謙信と敵対し、村上城は何度も攻防戦が繰り広げられました。特に永禄11年(1568)の戦いでは1年に亘り籠城戦が展開され、村上城は落城こそしませんでしたが上杉氏に降伏、以後は従属することとなります。その後、謙信には疎まれましたが"御舘の乱"で上杉景勝側を鮮明にした事で側近となり新発田城新潟県新発田市)攻略や庄内侵攻の拠点となります。

庄内地方(現在の山形県酒田市・鶴岡市周辺)は大宝寺氏が尾浦城(山形県鶴岡市大山)を拠点とし勢力を拡大していましたが家臣を掌握しきれず、南方から最上氏(山形城:山形県山形市)、北方から秋田氏(湊城:秋田県秋田市土崎)、東方から小野寺氏(横手城:秋田県横手市)から攻められるといった不安定な地域でした。本庄繁長は次男・千勝丸を大宝寺氏の養子にする事で従属させることに成功することが出来ましたが最上氏との関係が悪化し、天正15年(1587)には最上氏の侵攻を受け、尾浦城は落城し、大宝寺義勝(千勝丸)は生家を頼り村上城に引き上げています。天正16年(1588)、今度は一転して繁長、義勝父子が反撃に転じ、十五里ヶ原の戦いで見事最上方に勝利すると庄内地方を掌握し、天正17年(1589)には義勝が豊臣政権下で大名として認められています。

天正18年(1590)太閤検地後に庄内地方で発生した一揆(藤島一揆)は凄惨を極め、上杉家執政の直江兼続により関係者の多くが惨殺され一応鎮圧されましたが繁長が先導したと密告され大和国(現在の奈良県)に流罪となります(同じく上杉家の重臣である色部家との勢力争いに敗れたとも)。文禄の役に参陣し功を挙げた事で許され、1万石で再び上杉家家臣として迎え入れられ、慶長3年(1598)に景勝が春日山城(新潟県上越市)から会津黒川城(福島県会津若松市)へ移ると随行し福島城(福島県福島市)の城主に配されています。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは上杉家は西軍に与した為、東軍に与した伊達家は南下、本庄繁長は伊達政宗本隊と激突し20倍もの兵力を打ち破りましたが、本戦で西軍が敗れた事で景勝は米沢城(山形県米沢市)30万石で移封となり繁長もこれに従います。

繁長が去ると村上城は堀秀治(景勝の後に春日山城に入封)の家臣村上頼勝が与力大名として城主となり近世城郭へと改修、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでも村上氏は東軍(徳川方)として行動した事で領地が安堵され村上藩が立藩しています。村上城はさらに藩庁、藩主居館も整備されましたが元和4年(1618)に御家騒動により村上氏は改易となり完成には次の藩主堀直寄の時代にまで工事が及びました。その後短期間で藩主が変わり慶安2年(1649)に松平氏が藩主になると寛文3年(1663)から村上城の大改修が始まり現在見られるような石垣を始め、天守閣、櫓など建て替え、城下町も整備されました。戊辰戦争では白石城(宮城県白石市)で調印された奥羽越列藩同盟に参加し新政府軍と交戦し村上藩士撤兵の折村上城に火を放ち焼失しその後廃城となっています。村上城は国指定史跡に指定されています。


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