出羽三山登拝道

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出羽三山神社〜月山神社〜湯殿山神社

出羽三山
出羽三山出羽三山の開山者とされる蜂子皇子は崇峻天皇の第三皇子とされ、崇峻天皇5年(592)に崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺されると、聖徳太子(聖徳太子の母親である穴穂部間人皇女の実弟が崇峻天皇にあたる為、聖徳太子と蜂子皇子は従兄弟の関係)の手引きにより宮中を脱出し、丹後宮津由良から日本海を舟により出羽国に向かいました(用明元年:585年に既に宮中から脱出していたとも)。由良(山形県鶴岡市由良:宮津由良に因んで名付けられたとも)にまで辿り着くと8人の乙女が舞いを踊っていたとされ(8人の乙女に因んで八乙女浦と名付けられたとも)、その内の恵姫と美鳳に内陸部に霊気漂うよう聖地がある事を告げられ、蜂子皇子はその聖地を目指しました。しかし、余りにも急峻だった為、思うように探すことが出来ず、とうとう道に迷ってしまうと、何処からともなく三本足の八咫烏が出現し見事山頂まで導きました。その後、厳しい修行を重ねると、羽黒権現(伊氏波神)が出現しその教えに従い羽黒山を開山、さらに3年間修行を重ね月山を開山、推古天皇13年(605)に湯殿山を開山し、3つの霊山を総称し出羽三山と呼ばれるようになっています。ただし、湯殿山神社の別当寺院だった大日坊や注連寺は弘法大師空海により開山されたとの由緒を継承している為、他の2山とは趣きが異なります。出羽三山又、当初の出羽三山には羽黒山と月山の他、鳥海山や葉山が数えられ、湯殿山は後に列しています。その後は神仏習合の霊山として多くの修験僧が修行に訪れ、次第に信仰が広がると為政者や歴代領主からも崇敬庇護の対象となりました。江戸時代中期以降は庶民にも娯楽が広がり、全国から講という形式をとって出羽三山に登拝で訪れるようになり各山の門前には宿坊街が発展し、それらを結ぶ街道にも多くの参拝者が訪れました。出羽三山の本地仏である羽黒山=観音菩薩が「過去」、月山=阿弥陀如来が「現在」、葉山=薬師如来が「未来」を司る仏とされ、その三山(三関)を乗り越え湯殿山=大日如来に至る事で仏の境地に達し即身成仏するという教えがあり、これを「三関三渡」と称する修行として修験者達は行いました。元禄2年(1689)には松尾芭蕉も羽黒山、月山、湯殿山に登拝し「語られぬ湯殿に濡らす袂かな」、「有難や雪をかをらす南谷」、「涼しさやほの三日月の羽黒山」、「雲の峰幾つ崩れて月の山」の句を残しています。


出羽三山神社(羽黒神社)
出羽三山の1つ出羽三山神社羽黒山の祭神である伊氏波神は出羽神とされ延長5年(927)に編纂された出羽神社の論社となっています。古くから神仏習合し祭神である伊氏波神と稲倉魂命(羽黒権現)の本地仏として正観世音菩薩(脇侍:軍荼利明王・妙見菩薩)が信仰され、蜂子皇子が開山したとされる羽黒山寂光寺が別当寺院となっています。中世に入ると伊氏波神の信仰は薄まり伯禽州姫命(正観世音菩薩)、羽黒彦命(軍荼利明王)、玉依姫命(妙見菩薩)を羽黒三所大権現として祀られるようになっています。羽黒派古修験道が確立すると藤原秀衡や源頼朝等の為政者や領主などとも密接な繋がりを持ち、承安2年(1172)には秀衡が社殿を修築し、建久4年(1193)には頼朝が正善院黄金堂を造営(奥州藤原氏討伐である奥州合戦の戦勝祈願を行い、出羽三山神社見事念願成就した為、家臣である土肥実平を派遣して造営)、建治元年(1275)には北条時宗(鎌倉幕府8代執権)が大鐘を寄進しています(元寇の際、戦勝祈願したところ神風により元軍を見事撃退した事に感謝し寄進)。戦国時代に入ると庄内地方に大きな勢力を築いた武藤氏との結びつきを強め、一族や子孫達が羽黒山の別当職を担うようになりますが、最上家が台頭し庄内地方に侵攻を繰り返すと、その兵火により多くの社殿、堂宇が焼失し衰退を余儀なくされます。武藤家が没落すると上杉家に近い佐野清順(上杉家執政の直江兼続の腹心の僧侶)が別当に就任し、慶長5年(1600)の関が原の戦いで上杉家が庄内地方から去ると新たに領主となった最上家の一族の宝前院宥源が別当になっています。この頃の羽黒山は戦国時代の兵火の疲弊と宗派がばらばらになり統率が採りにくい状況となり衰微していましたが、出羽三山神社新たに別当に就任した天宥は江戸幕府で絶対的な権威を持つ天海大僧正に師事する事で事態の打開を図るように画策し、天海と同様に羽黒山全山天台宗に改宗し東叡山の末寺となり、徳川家康の分霊である東照社の勧請などを行っています。その甲斐あってか幕府から寺領1千5百石が安堵され、境内や参道の整備が行われ再び寺運も隆盛しています(天宥は出羽三山全山天台宗に改宗を目指しましたが、湯殿山系の寺院が頑強に反対し元々の真言宗を貫いています)。特に江戸時代中期以降は羽黒山の信仰は民衆にも広がり、全国各地に先達を派遣して講を結成し参拝者を募りました。明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後の廃仏毀釈運動により、原則仏教色は一掃され、社号を羽黒神社に改め別当寺院の多くは廃寺に追い込まれ、残された堂宇も廃棄され一部が神社の社殿として転用されました。中でも五重塔(国宝)は引き取り手が無かった事から末社である千憑社の社殿として大国主命が勧請されています。明治6年(1873)に出羽神社に社号を改められ、さらに寂光寺の本堂に月山神社と湯殿山神社が勧請され出羽三山神社(三神合祭殿)と称されています。

月山神社
出羽三山の1つ月山神社月山は蜂子皇子が崇峻天皇5年(592)に羽黒山を開山した翌年又は3年間の修行の後に開いたのが始まりとされます。祭神である月山神は宝亀4年(773)に神戸2戸が寄進されている事が初見で、格式が高く貞観6年(864)に従三位、貞観18年(876)正三位、元慶4年(880)従二位に列し、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳には名神大社として記載されました。古くから神仏習合し月山神の本地仏は阿弥陀如来(八幡大菩薩)として信仰され、修験道場として発展しました。戦国時代には庄内地方の国人領主である武藤氏の影響下に置かれた為、最上家の庄内侵攻の兵火を受けて荒廃しました。慶長5年(1600)に関が原の戦いの大功で庄内地方の領主となった最上義光は月山神社を庇護し慶長6年(1601)に社殿の修築を行っています。明治時代初頭に発令された神仏分離令と廃仏毀釈運動、明治5年(1872)の修験廃止令により仏教色は一掃され多くの堂宇、仏具、仏像は破却され衰微しました。明治7年(1874)に国幣中社、大正3年(1914)に官幣大社に列し、昭和23年(1948)に別表神社となっています。

湯殿山神社
出羽三山の1つ湯殿山神社湯殿山は蜂子皇子に推古天皇13年(605)を開山したとされますが、一方で別当寺院だった大日坊や注連寺は大同2年(807)に弘法大師空海によって開かれたとの由緒を持ち、羽黒山、月山とは異なる位置付けです。又、当初は出羽三山は羽黒山、月山、葉山又は鳥海山とされ湯殿山はそれらの奥之院として別格とされ、本地仏も出羽三山一体で意味ある信仰でしたが湯殿山だけ、それらの異なる大日如来があてられました。又、江戸時代初期に羽黒山の別当天宥によって、羽黒山、月山共に天台宗に改宗しましたが、羽黒山だけは頑強に拒否し当初からの真言宗を守り続けています。拝殿や本殿など通常の神社で見られる社殿が無い事も大きな特徴で、温泉が湧き出る茶褐色の大岩が御神体として信仰の対象となり、原始的な自然崇拝とも言える独特な雰囲気が満ちています。この御神体は古くから「語るなかれ」「聞くなかれ」と戒められた聖地で、松尾芭蕉も「語られぬ湯殿にむらす袂かな」の句を残しています。明治時代に入り神仏分離令により別当寺院は独立、又は神社となっています。


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