米沢城(山形県米沢市)と新発田城(新潟県新発田市)又は村上城(新潟県村上市)を結ぶ街道で米沢側からは越後街道、新発田側から米沢街道と呼ばれました。峠道としては大永元年(1521)、伊達稙宗(伊達家14代)が開削したのが始まりとされ、当初は稙宗が越後進出を画策する為の軍事的な要素が強い街道でした。天正18年(1590)には当時の会津黒川城(福島県会津若松市)の城主伊達政宗が豊臣秀吉に応じて小田原(神奈川県小田原市)に参陣する際、当初は会津西街道を南下する予定で大内宿まで片倉小十郎景綱以下百騎程の軍を進めましたが、何らかの事情で引き返し、米沢城を経て越後街道(米沢街道)を利用して越後、信濃を通過し小田原に着陣しています。政宗は何故このような行為をしたのかは不詳ですが結果的に小田原参陣まで26日という時間を費やした事で豊臣秀吉の印象が大変悪くなり(元々再三の出陣要請にも従わず、惣無事令を無視して会津侵攻を果たした為、処罰の対象になった)、150万石とも云われた領地を半減させられ、会津黒川城から米沢城に移封、さらに大崎一揆の不手際から岩出山城(宮城県大崎市)58万石に移封となっています。
江戸時代に入ると米沢城下と、日本海を結ぶ最短経路として米沢藩から重要視され、特に年貢米を京都や大坂に運ぶ際は越後街道(米沢街道)を利用して下関宿(新潟県関川村)まで運び、そこから舟に荷物を積み荒川船運により塩川港又は海老江港まで運び、北前舟により日本海に積み出されました。その為、下関宿は越後街道(米沢街道)の宿場町としてだけではなく、荒川船運の拠点として大きく発展し大商人となった渡辺家(国指定重要文化財)は米沢藩の財政に大きく関わった事から士分に取り立てられ大きな影響力を持ちました。
又、「十三峠」の別称がある程、多くの峠道があり、当時は出羽国と越後国との国境、江戸時代は米沢藩と村上藩の藩境があり、山形側の玉川(山形県小国町)には米沢藩の口留番所、新潟側の上関には村上藩の口留番所がそれぞれ設置され人物改めや荷物改めなどが行われました。戊辰戦争の際は米沢藩が奥羽越列藩同盟に参加し、越後勢への加勢の為に越後街道(米沢街道)を利用して進軍、渡辺家などに宿陣し藩主上杉斉憲の本陣にもなっています。終盤に入ると新発田藩などが新政府軍に転じるなど守勢に回り、榎峠の戦いでは米沢藩に死者12人、負傷者11人、行方不明8人の犠牲を払う大敗を喫し大きく後退、この戦いをきっかけにして和平交渉が行われ米沢藩の事実上の降伏が認められています。
明治11年(1878)には、イギリス人女性紀行家イザベラ・バードも越後街道(米沢街道)を利用して新潟から山形に入っており沼宿で宿泊しみすぼらしい宿場だった事が著書である「日本奥地紀行」に記載されています。現在でも峠道には当時の雰囲気が随所に残されています。
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