下野街道(山王峠〜栃沢)

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山王峠〜大内宿〜栃沢

下野街道(会津西街道)

下野街道(会津西街道)下野街道(会津西街道)は会津藩の藩庁が置かれた鶴ヶ城福島県会津若松市)と、日光街道の宿場町である今市宿(栃木県日光市)を結ぶ街道です。日光街道は奥州街道の宇都宮宿(栃木県宇都宮市)を結んでいた為、会津と江戸との最短距離で厳しい関所も少ないこともあり江戸時代当初は村上藩や新発田藩、会津藩、米沢藩などが参勤交代で利用した為、各宿場は賑わいました。その後、幕府が参勤交代で脇街道を利用する事に制限を受けた為、会津藩、村上藩、新発田藩は参勤交代を白河街道に変更となり、更に天和3年(1683)の日光大地震で街道筋が大被害を受け、元禄8年(1695)に代替街道として会津中街道が開削されと独占的な搬入経路も分散が余儀なくされました。ただし、会津と江戸を結ぶ最短距離で結ぶ街道としての立場は変わらず、多くの物資が行き交い、関東からは出羽三山、東北からは日光東照宮二荒山神社の参拝の道としても利用されました。下野街道(会津西街道)歴史的人物の利用としては、天正18年(1590)の小田原の陣の際、当時の会津黒川城(鶴ヶ城)の城主伊達政宗が大内宿まで進軍し、そこから一端引き返し越後、信濃を抜け小田原に至り、同年の豊臣秀吉による奥州仕置きの際に利用しています。江戸時代後期には吉田松陰、古川古松軒、戊辰戦争の際には宇都宮城の戦いで敗れた土方歳三や大鳥圭介が下野街道(会津西街道)を北上し会津に至り、官軍もそれを追う様に進軍し各地で激戦が繰り広げられました。明治時代初期にはイギリス人女性紀行家イザベラバードも下野街道を利用し大内宿で宿泊、著書「日本奥地紀行」で街道や宿場町の様子を詳しく描写しています。現在も「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている大内宿をはじめ、一里塚や峠道など良好に残され、歴史的な意義も大きい事から文化庁による「歴史の道百選」に選定されています。


山王峠〜大内宿

山王峠〜大内宿山王峠は古くから下野街道(会津西街道)の難所として知られ、山頂付近には宿場がなかった為に山王茶屋と呼ばれる茶屋が設けられ、旅人などの休息場として利用されました。信仰の対象にもあり峠の名称の由来にもなった山王権現社跡や馬頭観音像などの石仏が建立されています。会津領は日光側の横川宿まででしたが、事実上山王峠を越えると会津領となった為、戊辰戦争の際は新政府軍と会津軍とで激しい攻防戦がありました。峠の麓にある糸沢宿には会津藩や村上藩、新発田藩の藩主が参勤交代で宿泊や休息で利用した阿久津家住宅(糸沢宿本陣)や戊辰戦争の際には官軍の宿営地となり広島藩士の落書きが残る龍福寺などが残されています。田島宿は江戸時代当初会津藩領で、下野街道(会津西街道)と沼田街道の分岐点だった事から番所が置かれていました。

寛永20年(1643)、加藤明成(、賤ヶ岳の七本槍・七将の1人加藤嘉明の嫡男)が御家騒動(会津騒動:反対派の家臣が出奔した際、兵を差し向け殺害、幕府の裁定により会津藩40万石を取り上げられた。)により会津藩から改易になると天領となり元禄6年(1693)には幕府による代官所となり、周辺の天領支配の中心地として発展しました。倉谷宿は比較的に宿場町として町並みが残っていて、静かで落ち着いた家並みが続いています。倉谷宿から大内宿までは難所である中山峠が控え、峠道には石塔群や大ケヤキ、中倉一里塚跡、石畳などが残されています。


大内宿

大内宿集落の発生起源は不詳ですが、「大内」の地名の起源は高倉以仁王(後白河天皇の第三皇子)が当地に逗留していた際、平安京の宮城である「大内裏」に因んで名付けたと云われています。伝説が真意は謎のままですが、鎮守である高倉神社には高倉以仁王の御霊が祀られ、周囲にも以仁王の伝承が残されています。保科正之(3代将軍徳川家光の腹違いの弟)が会津藩主に就任すると本格的に下野街道も整備され寛永20年(1643)には大内宿も宿場町として町割が行われたとされます。大内宿は会津側には大内峠、日光側には中山峠を控える為、休息や宿泊で利用するには都合の良い場所だった事から本陣や脇本陣、旅籠なども設置され、物資の中継地点として繁栄しました。

延宝8年(1680)までは会津藩、村上藩、新発田藩、米沢藩の参勤交代の経路でもあり重要視されました。戊辰戦争の際は当時の庄屋など上役の懇願により会津兵は火をかけず撤退、その後も近代的な交通網から外れた為に奇跡的に茅葺屋根が軒を連ねる当時の宿場町の町並みが残されています。大内宿には明治11年(1878)にイザベラバードが宿泊した美濃屋や高倉神社、子安観音、石碑群などが残され昭和56年(1981)には国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され多くの観光客が訪れています。


大内宿〜栃沢

大内宿〜栃沢大内宿を抜けると暫く進むと道標と供養塔を兼ねた追分地蔵が安置され、さらに進むと桜木姫の墓が建立されています。桜木姫は以仁王の愛妾とされ、以仁王を求めて紅葉御前と共に大内宿付近まで辿り着きましたが、度重なる心労と旅の疲れににより享年18歳でこの地に没したと伝えられています。大内ダムを過ぎると大内峠に入り、ここでは下野街道の両側に残る大内一里塚や戊辰戦争の際、慶応4年(1868)9月2日から3日間、激闘となり会津兵24名が討死した大内峠古戦場、頂上付近にある茶屋(復元)があります。氷玉峠は会津若松、会津本郷町、下郷町の境界線が重なる事から郡境の塚が設けられ、周囲には旧下野街道の石畳も残っています。栃沢集落までは峠道が続き栃沢の一里塚(会津美里町指定文化財)も大内と同様に街道の両側に残っています。戊辰戦争の際は大内峠を最終防衛線と想定していましたが、突破され、栃沢集落や関山宿も激戦となり、集落は兵火により焼失しています。氷玉峠から、三郡境塚、茶屋跡、大内宿、倉谷宿、楢原宿に至る経路は当時の街道を様子を大変色濃く残している事から街道沿い約22キロが「下野街道」として平成14年(2002)に国指定史跡に指定されています。


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