山王峠は古くから下野街道(会津西街道)の難所として知られ、山頂付近には宿場がなかった為に山王茶屋と呼ばれる茶屋が設けられ、旅人などの休息場として利用されました。信仰の対象にもあり峠の名称の由来にもなった山王権現社跡や馬頭観音像などの石仏が建立されています。会津領は日光側の横川宿まででしたが、事実上山王峠を越えると会津領となった為、戊辰戦争の際は新政府軍と会津軍とで激しい攻防戦がありました。峠の麓にある糸沢宿には会津藩や村上藩、新発田藩の藩主が参勤交代で宿泊や休息で利用した阿久津家住宅(糸沢宿本陣)や戊辰戦争の際には官軍の宿営地となり広島藩士の落書きが残る龍福寺などが残されています。田島宿は江戸時代当初会津藩領で、下野街道(会津西街道)と沼田街道の分岐点だった事から番所が置かれていました。
寛永20年(1643)、加藤明成(、賤ヶ岳の七本槍・七将の1人加藤嘉明の嫡男)が御家騒動(会津騒動:反対派の家臣が出奔した際、兵を差し向け殺害、幕府の裁定により会津藩40万石を取り上げられた。)により会津藩から改易になると天領となり元禄6年(1693)には幕府による代官所となり、周辺の天領支配の中心地として発展しました。倉谷宿は比較的に宿場町として町並みが残っていて、静かで落ち着いた家並みが続いています。倉谷宿から大内宿までは難所である中山峠が控え、峠道には石塔群や大ケヤキ、中倉一里塚跡、石畳などが残されています。
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