貞山堀は日本最長の運河とされ、江戸時代初期に初代仙台藩主伊達政宗によって計画されました。名称の由来は政宗の戒名「瑞巌寺殿貞山禅利大居士」に因むもので、その後の拡張により仙台湾約130キロの内、約60キロが「貞山堀」や「貞山運河」などと呼ばれています。大きく「北上運河」、「東名運河」、「貞山運河(木曳堀・新堀・御舟入堀)」に分かれ、それぞれが太平洋に注ぎ込む大河を河口付近で繋ぎ合わせるように計画されています。これにより、舟運船から各港で荷揚げをし、海洋船に積み替える手間と時間を大幅に削減出来、飛躍的に物資の搬送が発展しました。
貞山堀: 最初に計画されたのが木曳堀で阿武隈川と名取川を繋げる事で、それぞれの舟運が行き来させる目的で政宗の晩年から2代藩主伊達忠宗の時代に概ね工事が完成したとされています。これにより阿武隈川河口の荒浜と名取川河口の閖上の約16キロが結ばれ仙台城下に比較的容易に物資が運ばれる事が容易になっています。次ぎに計画されたのが御舟入新堀でまず塩竃湾(千賀ノ浦)と砂押川との間が万治元年(1658)に完成し、砂押川と七北田川手前の蒲生舟溜まで寛文13年(1673)に完成しています。その後、高瀬堀や御舟曳掘が整備された事で、七北田川を利用して仙台城下まで物資の搬送が容易になり、要所(発着場)には仙台藩の施設である蒲生御蔵、鶴巻御蔵、若竹御蔵、原町御蔵がもうけられました。新掘は明治3年(1870)から明治5年(1872)にかけて計画されたもので七北田川と名取川の河口を結んでいます。仙台藩は戊辰戦争の際、奥羽越列藩同盟に参加し新政府軍に敗れ、大きく石高を減らされた事で民衆にも大きな打撃となり、その民衆救済の色合いの濃い事業となっています。
北上運河: 北上運河(土木学会選奨土木遺産)は明治11年(1878)から明治15年(1882)にかけて計画された運河で北上川の河口と鳴瀬川の河口、約12.8キロを結んでいます。これにより北上川舟運の船舶が北上運河、野蒜港(明治三大築港、土木学会選奨土木遺産)、東名運河、貞山運河を経て仙台に直接陸揚げする事が可能となりました。小型蒸気船が登場すると多くの旅客も利用しましたが、近代交通網や鉄道が整備されと、次第に衰微し、さらに土砂の堆積により小型船しか利用出来なくなっています。明治13年(1880)に完成した石井閘門は日本初の西洋式の本格的な閘門として大変貴重な事から平成14年(2002)に国指定重要文化財に指定されています。
東名運河: 東名運河は北上運河、野蒜港と同時期に工事が進められ明治17年(1884)に完成しています。これにより鳴瀬川と松島湾が結ばれた為、北上川河口と仙台が運河によって商船が行き来出来る体制が整っています。
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