矢立峠は標高258mの峠道で出羽国と津軽(陸奥国)との国境に位置しています。名称の由来となった矢立杉は元慶2年(878)に国境界線を決める為に矢を射って突き刺さった杉の大木を目印にしたとも、元慶4年(880)、大館城主が津軽に侵攻し戦勝、凱旋で戻った際、峠際の大杉の根元に弓と矢を納めたとも、津軽の領主と比内の領主が対立していた際、大杉に矢を放ちその具合によって勝敗を占ったとも云われています。その後も矢立杉が国境の境界線として保護され元禄年間(1688〜1704)に朽ちた跡も柵を設け、宝暦6年(1756)には朽ちた株跡に若杉を植えています(2代目の矢立杉も太平洋戦争で供出し伐採されています)。寛文2年(1662)に羽州街道が津軽家の参勤交代の経路として指定されると、矢立峠には津軽家の桁行20間、梁間6間の休息所が設けられ、藩主が江戸から到着時には郡奉行や、碇ヶ関代官、御茶水上奉行などが当地まで出迎えたと伝えられています。又、天明5年(1785)には菅江真澄(遊覧記)が、天明7年(1787)には古川古松軒(東遊雑記)が、享和2年(1802)には伊能忠敬(沿海日記)が、嘉永3年(1850)には松浦武四郎(東鼻沿海日記)が、嘉永5年(1852)には吉田松陰(東北遊日記)が、明治11年(1878)にはイザベラバード(日本奥地紀行)が明治14年(1881)には明治天皇が訪れています。特にイザベラ・バード(イギリス人女性紀行家)は「日本で今まで見たどの峠よりも、私はこの峠を褒め称えたい」と絶賛しています。又、文政4年(1821)には所謂「相馬大作事件」の舞台にもなり、津軽家と南部家の積年の恨みから盛岡藩士である下斗米秀之進が相馬大作に名を変えて密かに武器弾薬を久保田藩領に持ち込み矢立峠付近に待ち伏せ、参勤交代で通過する弘前藩主津軽寧親の暗殺未遂事件が起きました。事前に計画が露呈した為、寧親は大間越街道を利用して弘前城に帰城した為事なきを得ましたが、事件そのものは「みちのく忠臣蔵」と揶揄され、後に講談や小説などの題材として何度も取り上げられました。現在でも矢立峠周辺には旧羽州街道の景観が良く残されており茶屋峠跡や一里塚跡、旧国境・矢立杉跡、御休所(茶亭跡)、矢立橋跡、薬師堂などの史跡が点在しています。
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