板谷峠は標高755mで米沢街道(福島街道)の最大の難所で、往時は陸奥国と出羽国との国境、江戸時代には米沢藩と福島藩との藩境となりました。その為、峠直下の山形県側の板谷宿には米沢藩の番所(本口番所)が設けられ、実際の藩境となった産ケ沢に橋が設けられ傍らには杭が立てられ目印としていました。
大沢宿: 大沢宿は米沢街道(福島街道)の宿場町として発展した集落で現在でも数軒の茅葺民家が残されています。往時は本陣や旅籠などが軒を連ね40軒程あったものが現在では半数以下に減り町並みというよりは集落といった印象を受けます。本陣はありませんでしたが当地の有力者で苗字帯刀を許された斉藤五右衛門家の邸宅が、藩主上杉家が参勤交代の際は休息などで利用され、宿場の中心付近に位置していました。宿場の中央と出入口付近には枡形が設けられ軍事的拠点としてもしっかり町割されていたようです。
板谷宿: 板谷宿は最大の難所とされる板谷峠を控えていた為発展した宿場町で、往時は50軒以上の家屋が軒を連ね、口留番所や米沢藩主の本陣にあたる板谷御殿(宗川名右衛門家邸宅)、旅籠(11軒)、大山祇神社、西光寺(現在は廃寺)などがありました。特に板谷御殿は上杉家が参勤交代の際宿所として利用された施設で東西46間、南北36間の規模を誇り御殿将と呼ばれる家臣達によって守られました。
李平宿: 李平宿は慶長18年(1613)、阿部薩摩(上杉家家臣)によって開かれた宿場で、後裔は当地に土着し宿場の有力者として本陣に準じる格式を得ています。板谷村と庭坂村の中間に位置し物資の中継地として発展しましたが、明治時代に入り近代交通網が整備されると土地の優位性が損なわれ急激に衰退し、明治35年(1902)の大火で宿場の殆どの民家に被害を受け大正時代半ばに誰も住まなくなっています。
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