宗徳寺: 楼門

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宗徳寺(青森県・弘前市)

宗徳寺(青森県・弘前市)概要: 宗徳寺は弘前城の防衛施設として設けられた禅林街(曹洞宗の寺院を集めた寺町)に位置し、関ヶ原の戦いで散った石田三成縁の寺院です。元々は初代弘前藩主津軽為信が父親とされる武田守信の供養の為に創建された寺院で、歴代藩主からも庇護され禅林街の「下寺通り」の一番奥地に境内を構えるなど格式の高さが伺えます。

津軽家は当初、豊臣系の大名で取り次ぎだった石田三成とは関係が深く、2代藩主津軽信枚は三成の娘、辰姫を正室として迎え(後に徳川家康の養女である満天姫を正室として迎えた為に辰姫は側室に格下げ)、津軽為信の嫡男、津軽信建は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に与し、三成の2男石田重成(当時は豊臣秀頼の小姓)を津軽に逃したとされます。

津軽家本流は関ケ原の戦いでは東軍に与したものの、豊臣家からの恩義を忘れず、弘前城の一角に「館神」を設けて、密かに「秀吉の木像」を祭り、江戸時代を通じて代々藩主のみが奉斎を続けたとの逸話が残されています。石田重成は名を杉山源吾に改め、弘前藩領で隠遁し、長男杉山吉成は津軽信枚の娘を正室として迎えた事で藩主家と姻戚関係となり、杉山家は代々家老などの重役を歴任しています。

宗徳寺はその杉山家の菩提寺で境内には重成や一族の墓碑が建立されています(杉山家の墓碑には豊臣姓が刻まれており、石田光成が豊臣姓を賜っていたという説があります。※光成が豊臣姓を賜ったという、資料は現在見つかっていません)。山門は入母屋、鉄板葺(下屋庇:鉄板葺)、三間一戸、八脚二重楼門、華美な彫刻や装飾、組物が少ない質素な構成となっています。

弘前城と禅林街−弘前城が築城された際、城の南西方向の防衛施設の一端として設けられた寺町です。多くの城下町は寺院を一列に配して防衛線に見立てた寺町を町割りしますが、弘前城の場合は高台に設けられた城域に続く南西方向の出っ張り全体を禅林街として丁度、出城のような役割を果たしています。その為、禅林街の北・西・南の三方向は川で囲われ断崖となり、残された東方向には高い土塁と門で囲い城砦のようになっています。

一方、弘前城は霊的守護に強く重きを置いた城郭でもあり、四神相応や風水、陰陽五行思想などが随所に取り入れられ、禅林街は弘前城から見ると南西方向の裏鬼門にあたる為、裏鬼門封じとして城主である津軽家の菩提寺の一つ長勝寺と、武田守信の菩提寺である宗徳寺が中心寺院として配されたと思われます(黒門が設けられた上寺通りの突き当りが長勝寺。赤門が設けられた下寺通りの突き当りが宗徳寺)。

禅林街に集められた寺院は33ヵ寺、全て曹洞宗という日本全国の中でも特異な存在で「津軽氏城跡 弘前城跡長勝寺構」として国指定史跡に指定されています。

宗徳寺:動画

禅林街:動画

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