上諏訪宿: 教念寺

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教念寺(長野県・諏訪市)

教念寺(長野県・諏訪市)概要: 教念寺は室町時代後期の永正年間(1504〜1524年)に教譽淨念が一宇を設けたのが開創で、元亀2年(1571)に一袋上人が浄土宗の寺院として開山しています。高島城が築城されると城下町である現在地に移され江戸時代には関東18談林の一つに選定され当地域を代表する学問所として多くの僧侶が修行に訪れました。本堂は天保年間(1830〜1844年)の火災で焼失後の、弘化年間(1844〜1847年)に棟梁立川流四代目和四郎冨惇により建てられたもので、中尊阿弥陀如来像、脇侍勢至菩薩像、観音菩薩像、百体観音などが安置されています。経堂は文政9年(1826)に建てられたもので宝形造、銅板葺、土蔵白漆喰仕上げ、内部に六角経蔵が収められています。山門は明治時代の建物で三間一戸、入母屋、銅板葺、八脚楼門、外壁は真壁造り板張り、上層部高欄付、初代立川和四郎冨棟が制作したとされる「源海山」の山号額が掲げられています。絹本著色羅漢像(国指定重要文化財)や観経変相曼陀羅(諏訪市指定有形文化財)、金銅善光寺仏脇士仏(諏訪市指定有形文化財)、阿弥陀如来来迎図(諏訪市指定有形文化財)、紙本著色当麻曼陀羅図(諏訪市指定有形文化財)などの寺宝を所有しています。

上諏訪宿−教念寺の境内は高島藩の藩庁が置かれた高島城の城下町であると同時に甲州街道の宿場町である上諏訪宿でもありました。甲州街道は中山道の宿場町である下諏訪宿から分岐して江戸に至る道中で、幕府が重要視した五街道の一つでもありましたが、参勤交代で経路として利用するの3藩(高島藩、飯田藩、高遠藩)と定められ、難所や関所が多い事から中山道や東海道と比べると人や荷物の往来が少なく、旅籠が10軒前後で脇本陣も設けられませんでした(※高遠藩、飯田藩は杖突街道を利用し、杖突街道は甲州街道金沢宿から分岐した為、上諏訪宿は基本的に参勤交代では利用されなかった事になります)。本陣兼問屋は代々小平清右衛門家が歴任し文化6年(1809)には伊能忠敬測量隊が宿所として利用しています。下諏訪宿と同様に温泉街的な要素もあり「虫湯(蒸湯)」や「精進湯」は当時から知られた存在で、高島城にも源泉が引き込まれていたそうです。又、諏訪大社上社本宮への参道が上諏訪宿から分岐していた為、参拝者の多くが上諏訪宿を利用したと思われます。一方良質な水源を得られた事から醸造業が発展した町でもあり、現在でも多くの造り酒屋が軒を連ね町並み景観に大きく寄与しています。

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