北国街道: 善光寺

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善光寺(長野県・長野市)

善光寺(長野県・長野市)概要: 善光寺は推古10年(602)に本多善光が難波の津に漂着された「善光寺式阿弥陀三尊」を得て、信州麻績の里(長野県飯田市:現在の元善光寺)にある生家に祭ったのを起源としています。皇極天皇元年(642)に現在地近くに本尊が遷され大規模な堂宇が造営されました。歴代為政者、領主、周辺大名などから帰依を受け、戦国時代には名立たる大名が善光寺の本尊を巡り奔走しています。特に上杉謙信(春日山城の城主)は上越に境内を構える十念寺に尊像および仏具を移し、武田信玄は居城である武田氏館(躑躅ヶ崎館山梨県甲府市)の城下町に甲斐善光寺を創建し本尊を向かえ、その後は、織田家、徳川家、豊臣家と所有が移っています。江戸時代に入ると尊像は再び長野善光寺に戻され、幕府や領主である松代藩(長野県長野市松代町:本城−松代城)の藩主真田家が庇護し、宝永元年(1703)には幕府の命により松代藩3代藩主真田幸道が本堂(国宝)の再建が行われています。幸道は家臣である小山田平太夫を普請奉行に就任させ、宝永4年(1707)に撞木造り、桧皮葺、高さ約27m、間口約24m、奥行約53mの本堂が竣工しています。その後も、真田家は御開帳の際に回向柱を奉納し、境内には真田家の供養塔が建立されています。江戸時代中期以降は庶民の行楽思考が高まり、全国から善光寺詣での為に当寺に集まり門前町も大きく繁栄しました。山門は寛延3年に造営されたもので、五間三戸、入母屋、とち葺(下屋庇:とち葺)、2重楼門、外壁は真壁付き板張り、上層部高欄付、「善光寺」の扁額、国指定重要文化財に指定されています。

善光寺の門前町は北国街道の宿場町でもあり、戦国時代に荒廃した町は、慶長16年(1611)に北国街道が開削されると松代藩(当時は海津藩)の家老である大久保長安の命により宿場町として整備が行われ、本陣、脇本陣、問屋などの施設が設けられました。当時の町割りは大きく大門町、西町、東町が区割りされ、それぞれ市を開く特権が与えられ経済的にも発展し、善光寺平の特産物が集められる物資の集積地にもなりました。北国街道は加賀藩や富山藩、大聖寺藩、高田藩などの北陸諸藩が参勤交代で利用し、本陣である「藤屋」は加賀藩前田家の定宿として大きく発展しました。明治時代に入ると、城下町ではなかったものの、経済の中心として大きく発展していた事が評価の一つとなり、長野県の県庁所在地に指定され、名実共に長野県の中心地となっています。

善光寺には数多くの伝承、伝説が伝えられていますが、中でも信濃四大伝説の1つ「牛にひかれて善光寺参り」が有名です。現在の布引観音(釈尊寺)の麓に住んでいた全く仏の教えを信じない老婆が川で白い布を洗濯していた際、一頭の牛が出現し、角に布を引っ掛けて走り去って行きました。老婆は牛を追って善光寺の境内まで来たものの、見失い日も暮れた為、本堂の軒下で一夜を過ごしました。すると、老婆の夢に善光寺の本尊が出現し、仏の教えを教授しました。老婆が目を覚ますと、すっかり改心し、家に戻ると岩壁に白い布が掛り観音菩薩が袈裟を羽織っているように見えた事から布引観音と呼ばれるようになり老婆も篤く信仰したと伝えられています。

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