長谷寺: 楼門

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長谷寺(長野県・白馬村)

長谷寺(長野県・白馬村)概要: 長谷寺は室町時代初期の明徳2年(1391)に創建された寺院で、戦国時代には既に衰微していましたが仁科家の一族で平倉城の城主飯森盛春の室、光姫が篤く帰依し、荒廃した境内を再興しています。飯森盛春は仁科家の一族でしたが、武田信玄(躑躅ヶ崎館の城主)の信濃侵攻で仁科家が武田家に下ったものの、盛春は従わず逆に小笠原家に与し対立を深めました。弘治3年(1557)、信玄の重臣である山県昌景が派兵され立て籠もった平倉城は落城、盛春も壮絶な最期を迎えています。長谷寺は庇護者を失ったものの、境内は維持されました。江戸時代に入ると松本藩の本城である松本城と北陸道(北国街道)の宿場町で、糸魚川藩の藩庁である糸魚川陣屋を結ぶ千国街道が整備され、長谷寺の境内は街道筋として多くの参拝者が訪れました。長谷寺山門は文政3年(1820)に造営されたもので、三間一戸、入母屋、銅板葺、八脚楼門、外壁は真壁造り板張り、上層部には花頭窓、扉には象眼寺、高欄付、下層部は柱のみの吹き放し、江戸時代後期の楼門建築の遺構として貴重な事から白馬村指定文化財に指定されています。境内には中興開基となった光姫の墓碑が建立されています。

長谷寺が境内を構える飯森は、飯森城の城下町として成立し、江戸時代に千国街道が開削されると宿場町である飯森宿として整備されたと思われます。大きな宿場町では無い為、隣の飯田宿と交互に宿駅の任を担っていたようです。飯森宿には長谷寺の他、飯森神社(南北朝時代の永徳年間に飯森氏により創建)や十王堂(閻魔王など十人の王を祀った御堂、現在は石仏3躯が安置されているそうです。)などがあり、千国街道に数多く残されている石仏も当宿にも数多く存在しています。

千国街道とは十王堂の前に建てられた案内板によると「千国街道の名は、遠く中世以前にさかのぼるものである。北陸道から姫川沿いに信州への、東山道・木曽街道からは、松本平・安曇野を縦断して、越後へ通ずる道であった。近世にあっては、越後では松本街道、信州側では糸魚川街道とも呼んだ。松本城下から糸魚川までの120余キロの間を言うのであるが、信州と越後を結ぶ動脈として塩・麻など海陸物資の交流は繁く、新道の整備される明治20年前後まで、主街道の座にあって、経済路線としての役割は極めて大きかった。荷物の輸送は、すべて牛馬とボッカによるものだった。千国街道は・・・(後略)・・・。」とあります。

※ 当サイト「全国楼門建築」は資料や案内板、パンフレットなどを参考にして編纂していますが、個人的な意見も含まれている為、最終確認は自らの責任により最終確認してください。又、写真や文章のコピーは遠慮してください。

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