慈恩寺: 楼門

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慈恩寺(山形県・寒河江市)

慈恩寺(山形県・寒河江市)概要: 慈恩寺の創建は奈良時代に行基菩薩が境内を定め、聖武天皇の勅命を持って印度からの渡来僧である婆羅門僧正が開山したとの寺伝を持ってい寺院です。ただし、寺伝を補完する明瞭な歴史的な資料が乏しく真偽は不詳、本来、奈良時代の勅願寺は平地に広大な境内を設けて七堂伽藍が造営されるはずが、慈恩寺ではそれは異なる山岳寺院の伽藍構成となっている事からやや時代が新しいとも考えられるそうです。

又、平安時代の古代寺院の格式の一つ「定額寺」に選定され出羽国に境内を構えているものは法隆寺(廃絶、跡地不詳)、観音寺(現在不詳、跡地数多くの説有)、瑜伽寺(現在廃絶:山形県山形市滝の平)、長安寺(廃絶、跡地不詳)、霊山寺(廃絶、山形市瀧山、又は天童市水晶山)以上で、慈恩寺は含まれていない事から当時は大規模寺院ではなかった可能性が高いとされます。平安時代後期になると奥州藤原氏が庇護し新たに堂宇を建立して鳥羽上皇から賜った阿弥陀三尊像と釈迦三尊像、一切経五千余巻を安置し、山号を雷雲山に改め、新たに白山権現を鎮守の1つに加えています。奥州藤原氏の後は、藤原摂関家が庇護し、氏寺である興福寺の願西上人が願主となり平忠盛が再興しています。鎌倉時代に入ると源頼朝が庇護し、山号「瑞宝山」を賜り弘俊阿闍梨により真言宗の色合いが強くなると、天台宗が薄まり、白山権現が鎮守では無くなっています。

さらに、寒河江荘の地頭に就任した大江氏が慈恩寺を篤く信仰するようになり大きく庇護されましたが、正慶2年(1333)に鎌倉幕府滅亡時に当時の当主大江貞広も運命を共にしています。寒河江荘には大江氏の一族で土着勢力となった寒河江氏が台頭するようになり、大江氏の残存勢力を纏めて一定の勢力を維持し慈恩寺を庇護し続けました。戦国時代に入ると寒河江氏は最上家の勢力下に入り、慈恩寺も衰退傾向となり、正12年(1584)に寒河江氏が滅ぶと、代わって最上氏が庇護するようになります。

江戸時代初期に最上氏が改易になると幕府の庇護となり、特に幕府の重鎮である天海大僧正の影響を受け天台宗に改め寺領2812石余を安堵されています。戊辰戦争の際には慈恩寺の境内が庄内藩の宿所として利用されています。明治時代に入ると神仏分離令と修験道廃止令が発令され、さらに寺領を返納すると信仰の縮小を余儀なくされ衰退しました。名刹巡礼 古寺100選

慈恩寺山門は江戸時代中期の元文元年(1736)の建築で、入母屋、銅板葺、三間一戸、八脚楼門、山形県指定文化財に指定されています。

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