福島県: 城郭建築

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 福島県:城郭建築一覧
市町村 城名 名称 現在 概要 備考
会津若松市 鶴ヶ城 御三階 阿弥陀寺 3層4階、破風は御殿玄関
白河市 小峰城 太鼓櫓 茶室 2層2階、宝形、桟瓦葺 市指定
相馬市 中村城 大手門 大手門 慶安元年、大手門一の門 県史跡
相馬市 中村城 城門 正西寺 移築城門:切妻、桟瓦葺 市指定
相馬市 中村城 城門 長命寺 移築城門:入母屋、楼門、銅板葺 市指定
桑折町 西山城 城門 桑折寺 移築城門:向い唐門、元茅葺 県指定
棚倉町 棚倉城 南門 長久寺 二の丸南門を移築、薬医門
伊達市 保原陣屋 正門 長谷寺 移築城門:長屋門、入母屋、瓦葺 市指定
 鶴ヶ城−城郭建築概要
当初は黒川城と称し、古くから当地方を支配した芦名氏の居城でしたが天正17年(1589)鶴ヶ城伊達政宗が芦名氏を下すと南奥州の大部分を手中にし当城に入っています。伊達政宗は天正18年(1590)の小田原の参陣に遅参した事で豊臣秀吉の奥州仕置きにより米沢城に移され、さらに葛西大崎一揆の不手際により岩出山城に移されています。替わって黒川城には蒲生氏郷が入り文禄元年(1592)に大改修すると地名を「黒川」から「若松」に改められ、文禄2年(1592)に工事が終了すると城の名称も「鶴ヶ城」に改められました。慶長3年(1598)、蒲生秀行は御家騒動により宇都宮城(栃木県宇都宮市)に移され替わって鶴ヶ城には上杉景勝が春日山城新潟県上越市)から入封います。慶長5年(1600)の関が原の戦いで上杉景勝は西軍に与した為、米沢城に移され東軍に与した蒲生秀行が宇都宮城栃木県宇都宮市)から鶴ヶ城に復権を果たしています。寛永4年(1627)に蒲生家が廃絶になると加藤嘉明が入封し寛永20年(1643)に加藤家が御家騒動により改易になると山形城から保科正之が入封しています。保科正之は2代将軍徳川秀忠の4男(庶子)で3代将軍徳川家光の異母弟にあたる人物で、家光の片腕として幕政でも重きを成し4代将軍徳川家綱を補佐役も担いました。さらに、会津家訓十五箇条を制定した事で歴代会津藩主松平家は徳川宗家に対して篤く忠誠を貫いた為、幕末には旧幕府側の中心的な存在となり新政府軍との戊辰戦争を起こしています。鶴ヶ城も戦場となり1ヶ月に渡り籠城戦を行い明治元年(1868)9月22日に遂に降伏し開城しています。鶴ヶ城の施設は徹底的に破却され御三階と御殿の玄関のみが阿弥陀寺に移築され現存し、鶴ヶ城の唯一の遺構となっています。日本100名城
 小峰城−城郭建築概要
小峰城は南朝暦:興国元年(1340)、北朝暦:暦応3年に結城親朝によって小峰城築かれた平山城です。白川結城氏の居城は白川城だった為、小峰城には家臣である小峰氏が城主となっていましたが戦国時代に入ると居城を小峰城に移しています。天正18年(1590)の小田原の役で白川結城氏は参陣しなかった為、豊臣秀吉による奥州仕置きで取り潰しとなり、鶴ヶ城に入った蒲生氏郷の管理下に入ります。その後も鶴ヶ城の支城的な位置付けで上杉景勝や蒲生秀行の家臣が城主として派遣されています。寛永4年(1627)に蒲生家が廃絶になると丹羽長重が棚倉城から小峰城に入り、寛永6年(1629)に幕命により拡張と改修が行われます。慶応2年(1866)に阿部正静が棚倉城に移封になると二本松城の城主丹羽長国の預かりとなり、二本松藩は戊辰戦争の際に奥羽越列藩同盟の主力の1つとなった為、小峰城が最終防衛ラインに位置付けられ激戦が繰り広げられました。小峰城が落城後、多くの施設は戦禍により焼失し残された建物も多くが取り壊され、唯一残された二ノ丸の太鼓門西側に設けられた太鼓櫓が民間に払い下げられ昭和5年(1930)に現在地に移築され、現在は茶室として再利用されています。
 中村城−城郭建築概要
伝承によると中村城は延暦20年(801)、坂上田村麻呂が征夷大将軍として中村城当地に赴任した際築かれたのが始まりと伝えられています。その後、田村麻呂の家臣である菅原敬実が城主となり、菅原氏の後裔が土着して城跡に館を構え、文治5年(1189)の奥州合戦の際は菅原館が源頼朝の宿営地となっています。その後館は荒廃しましたが、延元2年(1337)、土豪である中村朝高が館を構え長く当地を支配しました。戦国時代に入ると相馬家が台頭し永禄6年(1563)には小高城の城主相馬盛胤の次男相馬隆胤が中村城の城代として赴任しています。当地は隣接する伊達領との最前線であり、度々中村城を拠点として合戦が繰り広げられ特に相馬家にとって重要な城郭でした。慶長16年(1611)、相馬利胤は中村城を大改修し居城を小高城から移し中村藩の事実上の中心施設として藩庁や藩主御殿などが整備拡張され近代城郭へと変遷を遂げました。以後、中村藩は歴代相馬家が藩主を歴任して明治維新を迎えています。戊辰戦争の際は中村藩は奥羽越列藩同盟に加盟した為、新政府軍の攻撃を受け落城、その後は新政府軍の当地方の拠点として機能しました。明治4年(1871)に中村藩が廃藩になった事に伴い中村城も廃城となり、建築物としては大手一の門だけが城内に残されています。移築城門としては城下にある正西寺の山門として移築されています。
 棚倉城−城郭建築概要
棚倉城は元和6年(1620)、丹羽長重が棚倉に入封し寛永2年(1625)から棚倉城寛永4年(1627)に築いた梯郭輪郭複合式平城です。中世以降、棚倉は赤館城が中心的な城郭で江戸時代当初も立花宗茂は赤館城に入り采配を振るいましたが、標高345m、比高65mの山城だった為、長重は行政的、経済的な有利な平地に近代的な城郭を計画しました。棚倉城の城域は約73000u、本丸を中心に二の丸・三の丸が取り囲み天守閣など高層な建築や大規模な石垣はありませんでしたが、本丸は高い土塁と幅広の水掘で4周を囲い4隅にはそれぞれ隅櫓を設け、2箇所の出入口は枡形で櫓門としました。その後は寛永4年(1627)に内藤信照が5万石で入封、宝永2年(1705)に太田資晴が5万石で入封、享保13年(1728)に松平武元が5万4千石で入封、享保3年(1746)に小笠原長恭が6万石で入封、文化14年(1817)に井上正甫が6万石で入封、天保7年(1836)に松平康爵が6万石で入封、慶応2年(1866)に阿部正静が10万石で入封しています。戊辰戦争の際は棚倉藩は奥羽越列藩同盟に加盟した為、棚倉城も新政府軍の攻撃を受け1日で落城しています。棚倉城が廃城になると殆どの建築は取り壊し又は払い下げとなり唯一の遺構として棚倉城二の丸南門が長久寺の山門として移築されています。
住宅設計

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