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兵庫県:城郭建築一覧 |
市町村 |
城名 |
名称 |
現在 |
概要 |
備考 |
姫路市 |
姫路城 |
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− |
− |
別紙 |
明石市 |
明石城 |
巽櫓 |
同左 |
元和5年:3層3階 |
国重文 |
明石市 |
明石城 |
坤櫓 |
同左 |
元和5年:3層3階 |
国重文 |
明石市 |
明石城 |
切手門 |
月照寺 |
江戸前期:薬医門、切妻、桟瓦葺 |
市指定 |
赤穂市 |
赤穂城 |
西惣門 |
花岳寺 |
移築城門:高麗門、切妻、本瓦葺 |
市指定 |
豊岡市 |
出石城 |
辰鼓楼 |
同左 |
日本最古の洋風時計台 |
− |
丹波市 |
柏原陣屋 |
御殿 |
同左 |
正徳4年:藩主御殿 |
国史跡 |
丹波市 |
柏原陣屋 |
表御門 |
同左 |
正徳4年:長屋門、入母屋、桟瓦葺 |
国史跡 |
丹波市 |
柏原陣屋 |
太鼓櫓 |
同左 |
正徳4年:望楼、3階、入母屋、本瓦葺 |
− |
佐用町 |
平福陣屋 |
陣屋門 |
民家 |
元治元年:長屋門、切妻、本瓦葺 |
町指定 |
佐用町 |
平福陣屋 |
陣屋玄関 |
正覚寺 |
唐破風、瓦葺 |
− |
佐用町 |
利神城 |
城門 |
光勝寺 |
切妻、本瓦葺 |
− |
村岡町 |
村岡陣屋 |
奥方部屋 |
奥方部屋 |
木造2階建、切妻、桟瓦葺 |
− |
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元和3年(1617)、松本城(長野県松本市)から当地に移封になった小笠原忠真(10万石)は2代将軍徳川秀忠の築城命令により明石城の計画が成されました。忠真は譜代大名で信任が篤かった事から要衝の地である明石に巨大な城が求められ、それまで中心的な城郭だったものの狭小だった船上城から移転する事になりました。元和4年(1618)には築城許可を得て、幕府からは築城費用として銀1千貫、人材として都築為正、村上吉正、建部政長、相談役として姫路城の城主本多忠政が派遣されました。元和5年(1619)から築城が始まり、元和6年(1620)には忠真が政務が行える程の完成をもって船上城から移っています。明石城は本丸の4隅に3層櫓を4基(巽櫓、坤櫓、乾櫓、艮櫓)を設け、本丸御殿も3階建てだったとされ、櫓の合計は20基(3層櫓4基・2層櫓6基・平櫓10基)、城門は合計27基に及ぶ壮大な城郭でした。寛永9年(1632)に忠真が小倉城(福岡県北九州市小倉北区)に移封になると、比較在任期間の短い城主が松平康直(7万石)、松平光重(7万石)、大久保季任(7万石)、松平忠国(7万石)、松平信之(6万5千石)、本多政利(6万石)と続き天和2年(1686)に松平直明が6万石で明石城に入ると、その後は松平家(6万石:直明→直常→直純→直泰→直之→直周→斉韶→斉宜→慶憲→直致→直致)が城主を歴任して明治維新を迎えています。明治7年(1874)、廃城令を受けて明石城は廃城となり多くの建物が破却又は、払い下げとなり残された艮櫓や乾櫓、土塀なども老朽化や用材確保の為、その後解体されました。現在明石城の本丸には巽櫓と坤櫓が現存し何れも国指定重要文化財に指定され、伏見城薬医門を明石城切手門として移築した城門が月照寺の山門としてさらに移築されています。
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文正元年(1466)、岡光広によって加里屋城が築かれたのが始まりで、その後天正年間(1573〜1591年)に宇喜多秀家が利用し、慶長5年(1600)に池田輝政の家臣垂水勝重が陣屋程度の城郭を整備しています。正保2年(1645)新たに赤穂藩主となった浅野長直が本格的な城郭を計画し慶安元年(1648)に工事が開始され寛文元年(1661)に完成、現在の赤穂城の原型が築かれました。元禄14年(1701)に世に言う元禄赤穂事件により浅野家は改易となり、元禄15年(1702)に永井直敬が入封、宝永3年(1706)に森長直が入封すると、以後、森家が13代城主を歴任に明治維新を迎えています。赤穂城は変形輪郭式平城で鉄砲や大砲などの砲撃戦を想定して変形した平面を持つことで死角を無くし城内から敵を十字砲火出来るように縄張りされています。これは甲州流兵学者の近藤正純の影響を強く受けているとされ、赤穂藩主浅野家の召抱えられた際は築城中の2の丸の縄張りを変更させています。明治6年(1873)の廃城令を受け廃城となり、明治9年(1876)から本格的に破却、払い下げが行われ城内に残った建物は殆ど姿を消しました。唯一の遺構とされる西惣門が浅野家の菩提寺である花岳寺の山門として移築されています。
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慶長9年(1604)、出石藩初代藩主小出吉政が岸和田城(大阪府岸和田市)に移封になると嫡男吉英が出石藩2代藩主を就任、これまで藩庁が設置されていた有子山城は山城で行政には不向きだった為、吉英は有子山城を廃して新たに麓に出石城を築き藩主の居館と藩庁を移しました。小出家は8代(6万石:吉英・吉親・5万石:吉英・吉重・英安・英益・英長・英及)に渡り出石城の城主を歴任し元禄9年(1696)に英及が幼少で死去した事で跡継ぎが無く改易となっています。代わって松平(藤井)忠周が4万8千石で入封しますが宝永3年(1706)には上田城(長野県上田市)に移封となり、仙石政明が入封、以後、仙石家が8代(5万8千石:政明・政房・政辰・久行・久道・政美・3万石:久利・政固)に渡り城主を歴任し明治維新を迎えています。出石城は有子山の麓に築かれた平山城で、上から稲荷丸、本丸、二の丸、下郭、三の丸が階段のように順番に築かれ形式的には梯郭式にあたります。天守郭は設けられませんでした、本丸と二の丸の城下側に2基づつ2層櫓が建てられました。明治維新後に廃城となり多くの建物が破却、払い下げになる中、辰鼓櫓だけが当時の姿を留め出石城の象徴的な存在となっています。
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