水戸城: 薬医門

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水戸城−薬医門
【 水戸城(薬医門):概要 】 水戸城薬医門は天正18年(1590)から慶長7年(1602)まで城主だった佐竹義宣によって建てられたと推定される建物です。佐竹氏時代の水戸城は石垣や天守閣は無かったものの、54万石は豊臣政権下第8位の大身だった為、石高に相応しい大城郭が求められました。又、佐竹義宣は慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで東西両軍に与しなかったものの、東軍(徳川家)から見ると軍令違反は明白で世間的にも西軍と目されていた事から、有事の際に備えて水戸城の防衛面での補充や籠城に備える準備が成されていたとも考えられます。何れにしても、薬医門の建築様式が安土桃山時代のものと推定される事から佐竹氏時代の建築と推定されています。薬医門の元々の位置については諸説ありますが、堂々とした格式ある形式や調査などから水戸城二の丸から本丸に到る表門(橋詰御門)ものとされ、佐竹氏が水戸城を去った後は武田信吉、徳川頼宣、徳川頼房と徳川家一族が城主を歴任しその都度、整備したものの、佐竹氏時代から日も浅く老朽化していなかった事から多くの建物が転用されたと思われます。明治4年(1871)の廃藩置県により水戸藩が廃藩になると、水戸城も廃城、多くの施設が破却、払い下げるとなる中、薬医門は明治19年(1886)に茨城県令となった安田定則邸の表門として明治20年(1887)頃に移築されました。明治24年(1891)に定則が茨城県知事を辞任すると、邸宅は豪商の小山田氏が買い取り、太平洋戦争末期の昭和19年(1944)頃に水戸市八幡町の祇園寺ぼ山門として移築した為、昭和20年(1945)の水戸空襲の戦災から免れる事が出来ました。その後、祇園寺から水戸市に寄贈された事を受けて昭和56年(1981)に水戸城本丸跡地である現在の茨城県立水戸第一高等学校敷地内に移築されています。

旧水戸城薬医門は切妻、銅板葺き、三間一戸、桁行3間、梁間1間、潜戸付。

【 場 所 】 薬医門−茨城県水戸市(水戸第一高等学校の敷地内)

【 備 考 】 昭和58年(1983)3月18日:茨城県指定有形文化財

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