飯山城: 城門

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飯山城−城門
【 飯山城城門:概要 】 飯山城の前身は鎌倉時代初期に鎌倉幕府の有力御家人だった泉親衛の居館として設けられたのが始まりとされます。泉親衛は北条家などが源氏宗家の排斥と幕府権力の乗っ取りを画策しているの危惧し、源氏主導の政権を確立する為「泉親衛の乱」を発生させますが、失敗し領地である飯山で隠遁したとされます。その後は泉氏が飯山城の城主を長く歴任してきましたが、戦国時代には隣接する高梨氏の台頭により配下にな入ったようで、飯山城も高梨氏の管理下に置かれます。さらに時代が下がると、武田信玄(躑躅ヶ崎館の城主)が北信濃にまで侵攻した為、高梨氏は越後の上杉謙信(春日山城の城主)に助けを求めると、永禄7年(1564)に飯山城がその前進基地として謙信自ら縄張りし拡張整備が行われました。江戸時代になると飯山城は飯山藩の藩庁が置かれ関氏、皆川氏、堀氏、佐久間氏、松平氏、永井氏、青山氏、本多氏が藩主を歴任し明治維新を迎えています。戊辰戦争の際には飯山城でも激戦があり、無数の砲弾が飛び交ったとされます。

現在の飯山城の城内に復元された城門は城内のどこに配されたのかは不詳。元々は楼門だったと思われますが、明治4年(1871)の廃藩置県により飯山藩が廃藩、飯山城が廃城となり、明治5年(1872)に飯山市柳原南条に居した丸山家に払い下げられた際に上層部が撤去され、長屋門形式に改変されたようです。平成5年(1993)に丸山家住宅が解体する事になり旧城門部分を飯山市が譲り受け、平成4年(1992)に発掘調査により、飯山城の南中門の基礎の礎石の位置などから、大凡、桁行5間(約9m)、梁間2間半(約4.5m)の規模だったと想定して平成6年(1994)に現在地で復元しています。外観の意匠などはあくまで想像されたもののようですが飯山城にこのような城門を復元したのは大きな意義があるとされます。

【 場 所 】 城門:長野県飯山市飯山

【 備 考 】 昭和40年(1965)7月29日:長野県指定史跡

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