彦根城: 二の丸佐和口多聞櫓

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彦根城−二の丸佐和口多聞櫓
【 彦根城(二の丸佐和口多聞櫓):概要 】 彦根の地は中山道と北陸道を押さえる事の出来る交通の要衝で、安土桃山時代には豊臣政権下で五奉行となった石田三成が佐和山城を居城とし大坂や京都へ進軍される事への押え役割を担いました。慶長5年(1600)の関ケ原の戦い後は一転して徳川四天王の井伊直政が入りましたが、佐和山城は山城で行政や経済面では有効な城では無く、さらに石田三成色が余りにも強かった事から、早くから彦根城の築城が計画されました。明治4年(1871)に廃藩置県が施行されると彦根藩も廃藩となり、彦根城も破却される運命でしたが、明治11年(1878)に明治天皇が巡幸の折彦根を訪れた際、大隈重信、又はかね子(住持攝専夫人)が保存を奉上した事で多くの施設が残される結果となりました。

彦根城の中堀には東(表門筋)の佐和口、南(大手筋)の京橋口、西の船町口、北の長橋口の4カ所の出入り口しかなく、城内の進入口を限定する事で少人数で籠城した際にも大軍を効率よく分散する事が出来ました。西の船町口は琵琶湖に面し、北の長橋口は藩主の別邸がある玄宮園に面していた事から、実際、城下町に接っして攻撃が想定されるのは東の佐和口、南の京橋口の2カ所となり特に堅牢な造りが要求されました。佐和口は高麗門、櫓門、多聞櫓、二重櫓で枡形を形成し、もし敵方が門内部に侵入すると行くてを阻み四方から鉄砲を狙い撃ち出来る構造となっていました。さらに、中堀に沿って多聞櫓途切れなく配され、両端の二重櫓が物見として機能する仕組みとなっていました。明治維新後に彦根城の解体が進み、高麗門と櫓門、向かって右側の多聞櫓と二重櫓は解体されましたが、向かって左側の多聞櫓と二重櫓は奇跡的に残され現存しています。又、背後には現存する最大級規模の馬屋が残されています。

現在残されている多聞櫓と二重櫓は明和4年(1767)に彦根城で火災がありそれに類焼し焼失した後の明和8年(1771)頃に再建されたもので、多聞櫓は木造平屋建て、切妻、本瓦葺き、外壁は本壁造り白漆喰仕上げ。二重櫓は木造2階建て、二重二階櫓、入母屋、本瓦葺き、外壁は大壁造り白漆喰仕上げ、両建物共に堀や通路に面して口や△の鉄砲狭間が多数設けられています。又、内部は7区画に分けられ御金方、御厩方、御馳走御道具方、御細工方御などに利用されていたようです。

【 場 所 】 二の丸佐和口多聞櫓:滋賀県彦根市金亀町

【 備 考 】 昭和26年(1951)9月22日:国指定重要文化財

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