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和歌山県:城郭建築一覧 |
市町村 |
城名 |
名称 |
現在 |
概要 |
備考 |
和歌山市 |
和歌山城 |
岡口門 |
同左 |
元和7年:櫓門、切妻、本瓦葺 |
国重文 |
和歌山市 |
和歌山城 |
追廻門 |
同左 |
寛永6年:高麗門、切妻、本瓦葺 |
国重文 |
和歌山市 |
和歌山城 |
狭間塀 |
同左 |
城塀:本瓦葺 |
国重文 |
和歌山市 |
和歌山城 |
時鐘櫓 |
同左 |
正徳2年:2層2階、宝形、本瓦葺 |
− |
和歌山市 |
和歌山城 |
御殿台所 |
光恩寺 |
光恩寺の庫裏として移築 |
市指定 |
和歌山市 |
和歌山城 |
多聞櫓 |
民家 |
民家の納屋として移築 |
− |
和歌山市 |
湊御殿 |
奥御殿 |
養翠園 |
木造平屋建て、寄棟、桟瓦葺き |
市指定 |
和歌山市 |
湊御殿 |
書院御座の間 |
感應寺 |
− |
− |
和歌山市 |
太田城 |
大門 |
大立寺 |
山門 |
市指定 |
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和歌山城は天正13年(1585)、豊臣秀吉が自ら縄張りを行い藤堂高虎(補佐役として羽田正親、横浜良慶)に命じて築いたのが始まりとされます。当地は大坂を守備する軍事的拠点として重要視した為、秀吉は弟で絶対的な信頼のある豊臣秀長に紀伊国・和泉国の2国を加増させ秀長を大和郡山城、和歌山城の城代として桑山重晴(3万石)を配しました。跡を継いだ桑山一晴は秀吉の死後、豊臣家を見限り徳川家に与し慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでも東軍として行動し改めて和歌山周辺2万石が安堵されましたが、同年に大和新庄藩に移封となり、浅野幸長が37万石6千石を持って入封し紀州藩を立藩します。幸長は和歌山城を大改修し天守郭の建設や石垣部分の拡張などを行っています。元和5年(1619)跡を継いだ浅野長晟が広島藩に移封になると、代って徳川家康の10男である徳川頼宣が55万5千石で入封し和歌山城の大改修と拡張が行われ徳川御三家に相応しい城郭となりました。以後、紀州徳川家が城主を歴任し、明治4年(1871)に紀州藩が廃藩になると和歌山城も廃城と多くの施設が破却されました。それでも多くの建物が残され11棟が旧国宝に指定されるなど偉容を誇っていましたが昭和20年(1945)の和歌山大空襲により大天守、小天守、北西隅櫓、西南隅櫓、櫓門、北東多聞、北西多聞、西多聞、南多聞、東倉庫、西倉庫が焼失しました。
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太田城は延徳年間(1489〜1492)、紀州国造の後裔とされる紀俊連によって築かれたのが始まりとされます。紀氏は神武天皇の東征に尽力し紀伊国の国造に配された天道根命の後裔とされ、国造職を担うと共に紀伊国一宮で延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に明神大社として記載された日前神宮・國懸神宮の神官として祭祀も司ってきました。戦国時代に入ると雑賀衆などから攻撃されるようになり、その後、雑賀衆太田党により掌握されました。天正4年(1576)には太田源太夫が修築し防御を固めましたが、天正13年(1585)、豊臣秀吉は6万の兵で侵攻され開城に至っています。太田城は約250m四方の平城で比較的小規模といえますが、豊臣軍は思いの他苦戦を強いられ、結果的には力技では落城に至らず、太田城の周囲に大規模な堤を築き、水攻めによって1ヶ月の籠城を経て太田一族の自決を持って開城に応じています。この戦いは備中高松城(岡山県岡山市北区高松)の水攻め、忍城(埼玉県行田市)の水攻めと共に「日本三大水攻め」の1つとして後世に語り継がれました。その後、太田城は廃城になりますが、大門が大立寺の山門として移築され現存しています。大立寺の山門は切妻、本瓦葺、一間一戸、薬医門形式、高さ5.6m、太田城唯一の遺構で、戦国時代の城門建築として貴重な事から昭和44年(1969)に和歌山市指定文化財(建造物)に指定されています。
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湊御殿は元禄11年(1698)、紀州藩2代藩主徳川光貞の隠居所として設けられました。和歌山城の出城的な存在で紀伊水道の水運を掌握出来ると所に位置し、広大な敷地には数々の施設が建てられ、紀州藩の江戸屋敷を模した豪勢な造りになっていたと云われています。嘉永6年(1853)には第13代藩主徳川慶福(後の14代将軍徳川家茂)が藩庁として利用された事もあり重要視されていた事が窺えます。明治4年(1871)の廃藩置県により紀州藩が廃藩になると湊御殿は廃され、多くの建物が破却、払い下げとなり、当建物である奥御御殿も払い下げとなり和歌浦東へ移築され、さらに紀州藩の西浜御殿の跡地である養翠園(江戸時代後期に紀州藩士山本理左衛門の下屋敷を10代藩主徳川治宝が修築、作庭した池泉回遊式大名庭園)に移築されました。現在の建物は火災で焼失後、11代藩主徳川斉順が天保3年(1832)から天保5年(1834)に湊御殿の奥御殿として建てられたもので木造平屋建て、数奇屋風書院造り、寄棟、桟瓦葺、平入、桁行18.1m、梁間10.86m、建築面積228.96u、内部は「上の間」、「次の間」、「入側廊下」、「濡れ縁」など、江戸時代後期の大名御殿建築の遺構として貴重な事から昭和42年(1967)に和歌山市指定文化財に指定されています(附:薬医門−紀州藩御仕入方役所の門)。
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