魏略から考察する邪馬台国と女王国2

女王国

自帯方至女国万二千余里

上記は「魏略」の一文で、現在は「翰苑」で残されています。帯方郡から1万2千余里で女国の国境に至ります。と訳せます。

魏志倭人伝でも同様の一文があり「自郡至女王國萬二千餘里」と記されています。「帯方(郡)」は単なる「郡」として、特に記さななくても判るものは省略しているようです。

魏略では「女国」又は「女王国」、魏志倭人伝では女国という表現が無く「女王国」としています。何れも、「国」と書いていますが、国王や官が居る国では無く、魏略の場合は女王がいる国を揶揄する表現、魏志倭人伝では女王に従っている国々を揶揄する表現として使っているようです。しかし、そのように定義すると帯方郡から1万2千余里の先は魏略と魏志倭人伝では異なる事になります。魏志倭人伝では邪馬台国は女王国の北に位置する国々だけが記載された「略裁」の中で次の国の国境までの距離が明確なのに対し、魏略では対馬国から壱岐国までの距離が不記載で、最終到達国が伊都国となっています。伊都国のページでも論じましたが、読みようによっては、伊都国の女王に、狗邪韓国、対馬国、壱岐国、末蘆国の国王が属すると訳せ、これらを鑑みると、「女国」は伊都国と推察する事が出来ます。

それが、魏志倭人伝は女王(卑弥呼)に従う21カ国を総括して女王国、首都機能を引き続き伊都国にあるように表現し、伊都国より東南方向百里にある奴国の国境と女王国の国境を同義としています。そして本来、狗奴国が位置した所に架空の奴国を捏造し、狗奴国は女王国のさらに南側に追いやったという可能性があります。奴国は2万戸と、当時の常識では考えられない戸数を誇り、女王国の北方しか略裁を記さないという記事にも矛盾します。

さらに、弥生時代の王墓は全国に6箇所しか無く、その内の4カ所(井原、平原、三雲×2)は伊都国内にあり、残りの内の1カ所(須玖岡本)は魏志倭人伝から導かれる奴国内にありますが、一方で国王が居るのは伊都国と狗奴国の2カ国だけである事から、現在、奴国の版図を考えられる春日市周辺は狗奴国の版図だった可能性があるのではないでしょうか? 当然、この説は一般的ではありませんが、魏略と魏志倭人伝では受ける印象が異なる事も事実です。

ちなみに魏略逸文には邪馬台国の国名は出現せず、魏志倭人伝も僅か1回と非常に存在感が無く、実在しているのかも含めて検討する余地があると思います。

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