魏志倭人伝と邪馬台国のまとめ・総論

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まとめ・総論

まとめ・総論・概要: 魏志倭人伝は、現実的には存在しない邪馬台国と投馬国を、あたかも存在しているように見せかけた文章である事が理解出来ました。魏志倭人伝の著者である陳寿は「女王国」という単語を巧みに使い、邪馬台国を「女王の都する所」と表現する事で、女王国と邪馬台国が同義であるかように錯覚させました。そして、女王国を主語として実際の倭人の様子を詳細に描き、本来、中国(魏)の役人が伊都国までの道中とその周辺しか知りえない、戸数や官名、道里などを邪馬台国と投馬国の紹介する一文に書き込む事でより現実性がある国として誘導しました。もう一言付け加えれば、邪馬台国の七万戸(約35万人)という当時の日本ではありえない戸数を納得させる為に、卑弥呼の塚を巨大に描いたと考えられます。逆に、魏志倭人伝の基になったとされる「魏略」では伊都国の戸数が1万余戸と記され、倭国最大の戸数で首都として相応しいものでしたが、魏志倭人伝では千戸と1/10に減じられ、邪馬台国の7万戸が際立たせています。もし、女王国や倭国と邪馬台国が同義であるならば、態々、「女王国」や「倭国」を使用せず、全て「邪馬台国」と書けばそれで済むはずなのに、作為的に文章を操作し、距離や方角を調整する事で太平洋上の会稽の東冶(現在の中国福建省福州市)に位置するように仕向けています。陳寿の誘導に乗ってしまった、後の中国人や日本人は「当時の倭国には30カ国あり、一番有力だった邪馬台国が統率し、その邪馬台国は女王である卑弥呼の都があった事から女王国とも呼ばれている。」と数百年も錯覚され続けているのです。多少異なりますが、日本書紀に神功皇后という架空の皇后の実績を詳細に描き、一方、注釈で「魏志には倭の女王が居て、魏に貢物をしていた。」と記す事で、神功皇后と卑弥呼が同一人物で実在しているように錯覚させる手法に通じるものがあります。

主な魏略と魏志倭人伝の比較

魏 略
魏志倭人伝
変更
・国度海千里復有国皆倭種・女王国東渡海千余里復有国皆倭種・倭種への起点が国→女王国
・対馬国・対海国・誤記と思われます
・対馬国の戸数の記述無・千余戸・無し→千
・一支国・一大国・誤記と思われます
・一支国の戸数の記述無・3千戸・無し→3千
・末盧国の戸数の記述無・4千戸・無し→4千
・伊都国の戸数の万戸余・千戸・一万→千
・其国王皆属女王也・世有王皆統属女王国・国王→世有王・女王→女王国
・属→統属
・女王之南又有狗奴国・女王之南・女王→其南

魏略は魏志(倭人伝)の基になったとも云われる文書で、現在多くは散逸し、一部が逸文として伝えられています。残されたものを比較すると「陳寿」の意図が少しでも判るかも知れません。一つは「女王国」です。魏士では「女王国」の単語が5カ所出現していますが、少なくともその2カ所が上記のように、魏略からの書き換えが確認出来事、強い意識が窺えます。戸数についても、魏略では伊都国が一万戸余と、倭国の首都として相応しい規模でしたが、魏士では何故か最小の千戸と書き換えられています。魏士の概略が判る国々の戸数を加えると3万戸(対馬国:千戸余+壱岐国:3千戸余+末盧国:4千戸余+伊都国:千戸余+奴国:2万戸余+不弥国:千戸余=3万戸)となり、投馬国が5万戸、邪馬台国の7万戸を対比させると、「3:5:7」、これは中国にとって縁起の良い数字で、「呉」の首都である建業(秣陵)がある丹陽郡が60万人に対抗させる為、投馬国と邪馬台国に12万戸(12万×5人=60万)を振り分け、残りをさらに振り分けて、「3:5:7」になるように調整したとも考えられます。その際、本来の女王の都と思われる伊都国を最低、架空の女王の都と想定した邪馬台国を最高として誤解を招かせるように細工したのかも知れません。魏略の「其国王皆属女王也」の一文も難しいです。前文には伊都国の事が書かれている事から、普通に考えると「其」は伊都国に掛かりますが、その後に「皆」がある為、欠落した文章に書かれていたと思われる国々の国王達皆が女王に属するなり、という主旨だったのかも知れません。魏志では、伊都国の国王に特定させる為に「世有王」とし、伊都国に代々国王が有り、皆、女王国に統属するという意味に改変しています。前述しましたが、「女王国」とは所謂「国」では無く、地域や区域、圏域など範囲を揶揄したものですから、逆に、伊都国の歴代国王達は、女王の主権が及ぶ国々を統属しているとも訳せます。

よく言われる短里という単位では無く、水行1日を千里、陸行1日を三百里として大凡の日数と距離を把握するだけのもので、実際の距離を計測したものではありません。その為、同じ水行千里でも、108.5キロの場合もあれば、54.25キロ、27.125キロの場合もある、それでも十分な情報になったと思います。

ただし、邪馬台国と投馬国については距離では無く日数で記載されている為、操作された数字では無く、水行1日84キロ、陸行1日28キロで計算する事となり直線式で、不弥国から3340キロ(水行84キロ×30日+陸行28キロ×30日=3340キロ)、南方向に行くと東南アジアに達し、東方向に行くと日本とハワイの中間の太平洋上に達します。九州説にしても畿内説にしても成り立たたず、邪馬台国と投馬国は架空の国だという事が判ります。放射説をとった場合は1680キロ(水行84キロ×10日+陸行28キロ×30日=水行84キロ×20日)となり、南方向に行くと中国海南島の東の海上に達し(邪馬台国を水行又は陸行と解釈すると会稽の東冶の東に位置します)、東方向に行くと八丈島を軽く超えて太平洋上に達します(北東に日本列島沿いに行くと北海道)。こちらも九州説にしても畿内説にしても成り立たたず、邪馬台国と投馬国は架空の国だという事が判ります。

魏略が編纂された当初、中国から見ると「倭」は、会稽の東冶(現在の中国福建省福州市)の東に位置すると思われていました。しかし、陳寿が魏志(倭人伝)を編纂した際に、「倭」が予想以上に小さな存在で北方に位置していたという事に気づき、机上で会稽の東冶の東にあり、「呉」を牽制出来る「邪馬台国(7万戸)」と「投馬国(5万戸)」を創出させ、あたかも存在するように、魏略を編集(改変)したのではないでしょうか?そして女王卑弥呼の都があった伊都国ヤァミタ(平原遺跡のある現在の福岡県糸島市有田)を草書体で「耶海台(国)」と表現し、それを後世の人々が誤解して「邪馬台国」と書き写したのではないでしょうか?当サイトは少なくとも「南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸」と「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳?可七萬餘戸」の2文の多くは改変、又は追加されたものと結論付けました。さらに、言うと、参考した「魏略」も曹氏への対抗心から司馬氏の意向を受け、西方に位置する大月氏国を上回るように仕向けられたと考えられます。

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