大国主命と奴国(私論)

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大国主命

大国主命(私論)・概要: 前のページで、九州(奴国系)倭国の国王は大国主命であると推論を立てました。幼名である大己貴命(オオナムチ)が、大「」ムチ(ムチ=ミコトより古い尊称語)と読み替える事が出来る以外の、理由は様々ありますが、古事記の大国主命の神話の幾つかが九州北部の事を示唆している点が挙げられます。

因幡の白兎(稲羽の素兎)神話では、大穴牟遲神(大国主命)には八十神(沢山)の兄弟神が居て、兄弟共々八上比売と呼ばれる女神に求婚を求めました。八十神が八上比売の下に訪れようとした際、大穴牟遲神に自分達の荷物を預けた為、大穴牟遲神は大きく後れを取りました。暫くし「気多の前」まで来ると、傷ついた一羽の兎が倒れており、話を聞くと八十神に、海水で傷口を洗い、日光に直接当てれば治癒すると教えられ、体が動かなる程悪化したという。又、兎は「淤岐嶋」から「稲葉」に、「和邇」を騙して渡ろうとしたところ、その企みが和邇達に知る事となり、深い傷を負わされたと涙を出しながら話しました。すると、大穴牟遲神は兎に対して清らかな真水で傷口を洗い、風通しの良い日陰に蒲の穂を敷いて、優しく寝かせると、この蒲の穂が傷口を治してくれるだろうと話しました。兎は感謝の意から、八上比売は決して八十神達を受け入れ無いでしょうと予言しました。八上比売は兎の予言通り、八十神達を拒絶し、大穴牟遲神の元に嫁ぐ事になりました。

出雲神話だけでは、大穴牟遲神が八十神にい嫌がらせを受けながらも、優しさと医療の知識で傷ついた兎を助け、それを認めた八上比売と結ばれる、単なる英雄譚でしかありません。何故、「八上比売」、「淤岐嶋」、「和邇」、「兎」なのかを考察すると、九州北部説が成り立つ事が判ります。当サイトでの倭国とは、九州北部と朝鮮半島南部、それに連なる島々からなる海洋国で、対馬海峡を掌握する事で絶対的な権力を有していました。そして、その海上交通で大きな影響力があったのが博多周辺に本拠があった安曇族で、「和邇氏」とも呼ばれました。当サイトでの女王国に属する21カ国は倭国に従わざるを得ない状況で、その支配から脱するには朝鮮半島までの新たな経路(宗像→大島→沖ノ島→対馬→朝鮮半島)を掌握する必要性がありました。そこで、安曇族と共に海人族だった宗像氏と関係が深く、倭国とも一定の距離をとっていたと思われる対馬国との豪族との血縁を結ぶ事が必須だったと思われます。詳細は不詳ですが対馬国に鎮座し式内社である島御子神社(長崎県対馬市)には大国主命と共に、「八上比売」が祭られている事から、八上比売は対馬国の有力者の娘、又は女王だったのかも知れません。そして、宗像氏は「宇佐氏」とも呼ばれている事から神話での「兎」と「和邇」の関係は現実世界での「宇佐氏」と「和邇氏」の関係でもあり、大穴牟遲神が「宇佐氏」を助けて八上比売(対馬国)と関係を結んだ事を暗に示しているのかも知れません。又、海上に浮かぶ「沖ノ島」は宗像大社の田心姫神を祭る沖津宮が鎮座し、田心姫神の別名である多紀理毘売命は大国主命の妃でもあるのです。「先代旧事本紀」によると、宗像大社の中津宮(筑前大島に鎮座)の祭神である多岐都比売命は大己貴神(大国主命)に嫁ぎ、八重事代主神と高照光姫命を生んだと記載されています(古事記での神屋楯姫は多岐都比売命と同神という説もあります)。さらに、宗像神社(辺津宮)の境内社である稲庭上神社は元々は宗像市田島字北付に鎮座していたそうです(稲羽の素兎に出会った「気多の前」)。

八上比売が大穴牟遲神を選んだ為、嫉妬に狂った八十神は大穴牟遲神を2度殺害、大穴牟遲神の母親はその都度生き返らせます。しかし、八十神の怒りは凄まじく、このままでは滅ぼされてしまう為に「根の国(根堅州國)」に逃亡し、そこでスサノオに出会い、その娘である須勢理毘売命と恋仲となります。スサノオは大穴牟遲神に多くの苦難を与えますが、須勢理毘売命の助けにより、なんとか2人で乗り越え結ばれる事が出来ました。スサノオからは「大国主」、「宇津志国玉神」を名乗る事と、盗んだ「生太刀、生弓、天の詔琴」で八十神を討ち果たす事、須世理姫を正室とする事、宇迦能山の山麓に太い柱の高天原に届くような巨大な宮殿を造営し居する事を約束させました。

「根の国」については、概念的な存在な為、場所の特定は出来ませんが、大国主命はスサノオの正式な後継者として認められ、正当性を得ています。不思議なのが、巨大な宮殿の下りですが、大国主命の国譲りでは逆に、天孫族側に巨大な宮殿を要求しています。一般的には両方共に、現在の出雲大社(島根県出雲市)とされ、土中にはそれを裏付ける巨大な柱が発見されています。素直に読めば、大国主命は巨大の宮殿を建てたものの、さらに、それを上回るような巨大な宮殿を要求した、又は、そもそも、宮殿が別々の場所に建てられた事が推察されます。そこで、スサノオが最後に言い放った「是奴也」の訳が問題になります。

一般的には、父親としての立場から、しょうがないから娘をくれてやろう、との意味から「こやつめ」や「こいつめ」、「この野郎」などと訳するのが普通ですが、逆に国の成り立ちを語っているとすれば「是、すなわち奴(国)、也」とも読む事が出来ます。宇迦能山については判りませんでしたが、大宰府の鬼門(北東)に位置する宝満山(標高:829.6m)は大変興味深いと思われます。麓には「宇美」という地名、古名では「那賀郡」があり、古くは神体山として「御笠山」、「竈門山」などと呼ばれ、信仰の広がりもあります。さらに、奴国の聖地とされる奴国の丘歴史公園(須玖岡本遺跡:福岡県春日市)とは東西略一直線上にあり、意識的に選ばれたとも考えられます(東(宝満山)から日が昇り西(須玖岡本遺跡)に沈むという死生観を表現したかも?)。山麓に鎮座する竈門神社は延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳で格式の高い名神大社として記載され九国総鎮守とも云われました。ただし、大国主命やスサノオとは関係が薄いようです。以上の推論により、所謂「出雲神話」と呼ばれる神話の舞台は出雲より、九州北部の出来事と考える方がより現実的に感じます。

古事記には大国主命(大己貴命)には、大穴牟遅神、八千矛神、葦原色許男神、宇都志国玉神の4つの異名があると態々記してから、文中でもそれぞれ書き分けて登場し、このような神は古事記や日本書紀では大国主命が唯一の存在で謎の1つとされます。大国主命の名称については、スサノオの試練を耐え、その名前を名乗るように命令されている事から、九州(奴国系)倭国の国王の称号で、残りの4名は歴代の国王の名称だったとも考えられます。古事記では、大国主命の妃として、正室である須世理姫の他、八上比売、多紀理姫、神屋楯姫、鳥取姫の5名が挙げられ多妻持ちのように思われていますが、歴代国王の正室だったのかも知れません。九州(奴国系)倭国は最大でも80年間前後の短期政権だったと推定される為、一人平均在位18年間としたら、かなり自然な数字となります。

以上の事を受け、奴国王だった大国主命は出雲国との同盟(スサノオの娘、須勢理毘売命との縁組)と、対馬海峡の水運の確保(対馬の実力者の娘と思われる八上比売との縁組、海人族である宗像氏との友好)により、八十神(当サイトでは女王国に属した21カ国)を打ち払い、伊都国系倭国から政権を移譲され、奴国系倭国(葦原中国)を建国、以後、大穴牟遅神、八千矛神、葦原色許男神、宇都志国玉神と5代にわたり支配した後に、国譲りによって大和倭国に、中国から認められた正式な「倭王」の称号を譲渡したと推察します。

「出雲風土記」には、大国主命の代名詞となる「稲葉の素兎」や「八十神からの迫害」、「根の国のスサノオの試練」、「大国主の妻問い」、「少名毘古那との国造り」、「国譲り」神話が基本的に記載されていませんが、地域地域は所造天下大神(大国主命)の逸話が数多く残されています。これは、スサノヲが出雲国の建国の祖、大国主命は一度大和倭国によって滅ぼされた出雲国に新たに赴任してきた新生出雲国の建国の祖として崇められているからかも知れません(4世紀半ば頃に九州倭国、出雲国、共に大和倭国の支配下に入ったと思われます)。これらの事からも大国主命は九州北部で行われた「国譲り」で奴国系倭国(葦原中国)を奪われた後に、大和倭国に従属した出雲国に赴き采配を振るったと推察します。

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